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2025年08月14日(木) 18時58分 bysoo_cyan

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ご由緒
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京都市東山区粟田口鍛冶町。華頂山。浄土宗西山禅林寺派。源信、法然の住跡とも伝えられる。もとは天台宗青蓮院の境内地にあって、念仏堂として発祥。永禄七年(一五六四)に二五歳の浄清が開基となった。本尊阿弥陀如来像は小野篁たかむらの作と伝えられ、また源信の作とも伝えられている。足利義満に仕え剃髪した一遍の弟子国阿の塔がある。
                              -新纂浄土宗大辞典よりー

 良恩寺は、山号を華頂山という浄土宗西山禅林寺派(総本山は永観堂禅林寺)に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来です。創建は永禄年間(1558~1570)とされ、元治元年(1864)に刊行された『花洛名勝図会』は、元々は天台宗寺院で、中世になって浄土宗に改め、その後青蓮院に属したと記します。また一説には、周辺地域にこの寺院に関連する名前が多いことや付近から金紋の瓦が出土することなどから、かつては広大な敷地を有する寺院だったという説を記しています。
 鎌倉時代に、第92代伏見天皇の皇子である尊円親王(1207~1231)が、この地に鎮守社として粟津稲荷を勧請しました。そして、室町時代の永禄7年(1564)、僧・浄清(生没年・詳細不明、僧・西谷の弟子と言われる)が良恩寺を建立します。この建立には、青蓮院の承仕(じょうじ、雑務にあたる僧)であった渡辺氏が僧・西谷に帰依し、自邸を寄進し境内地することによって関わっていました。そのため、「当初は天台宗青蓮院に属した(寺伝)」と言われています。
 その後、粟田口の惣堂となり、「上之堂(かみのどう)」「念仏堂」などと呼ばれていました。
 江戸時代に入って、(寛文5年(1665)頃か?)境内背後の華頂(花頂)山にあった火葬場が良恩寺に任されることになり、寺が管理するようになります。この頃から、葬者に地蔵尊の前で引導を渡していた事から「導引地蔵」と呼ばれるようになっていきます。享保年間(1716~1736)に火葬場は廃止されています。
 「花頂山火葬場(粟田口火葬場)」は当初、三条通北、東岩倉山下にあり、慶長元年(1596)武将・酒井忠次の夫人を火葬したことに始まるとされています。江戸時代の寛永元年(1624)、花頂山山麓に移されました。
 明治に入って、「神仏分離令」の廃仏毀釈の影響をこの寺も蒙り、境内にあった鎮守社、粟津稲荷、市頭稲荷が粟田神社に遷されれることになりました。
              ー浄土宗西山派 豊臣秀吉ゆかり 華頂山良恩寺ふるさと講演会と見学の集いーより
参拝時間
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通常非公開
Introduction
創立
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永禄7年(1564)
創始者/開山・開基
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浄清上人
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