ほんがくじ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方本覚寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2025年11月14日(金) 18時28分46秒
参拝:2025年10月吉日
京都市下京区にあるお寺です。
五条通まで上がってきました。
こちら本覚寺には山門と中門がありました。
歴史のあるお寺らしく 立派な山門で 木組みが美しいです。
建てられてから年月が経つと 古い木の色(深いこげ茶)と白塗りの色が相まって美しいです。
古い建物はこういう部分に歴史の重みというか渋さを感じます。
好きですねぇこういう部分。
さて 山門をくぐると駐車スペースになっています。
お墓参りに来られた方のスペースかなと思いました。
そちらには鐘楼もあり こちらも古いものでした。
白塗りがあればもっとかっこいいのに。
奥には中門があります。
立ち入り禁止とありましたので こちらで合掌して写真を撮らせていただきました。
中門の先には本堂があります。
町中でこのようなお寺らしい建物を見ると嬉しくなります。
維持するのが大変だと思うのですが 民家のようなお寺だと悲しいです。
本堂の扁額もかっこいいですね。
ネット情報です。
山号を佛性山といい 浄土宗の寺で 開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで この辺を本塩竃町という。
寺伝によれば 初め西八条の遍照心院内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので 寺名は信子の法名本覚をとったものである。
その後 梅小路堀川に移転し 応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ 末寺14を有する本山となった。
その後 後柏原天皇の勅願寺となったが 天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。
境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。
五条通まで上がってきました。
こちら本覚寺には山門と中門がありました。
歴史のあるお寺らしく 立派な山門で 木組みが美しいです。
建てられてから年月が経つと 古い木の色(深いこげ茶)と白塗りの色が相まって美しいです。
古い建物はこういう部分に歴史の重みというか渋さを感じます。
好きですねぇこういう部分。
さて 山門をくぐると駐車スペースになっています。
お墓参りに来られた方のスペースかなと思いました。
そちらには鐘楼もあり こちらも古いものでした。
白塗りがあればもっとかっこいいのに。
奥には中門があります。
立ち入り禁止とありましたので こちらで合掌して写真を撮らせていただきました。
中門の先には本堂があります。
町中でこのようなお寺らしい建物を見ると嬉しくなります。
維持するのが大変だと思うのですが 民家のようなお寺だと悲しいです。
本堂の扁額もかっこいいですね。
ネット情報です。
山号を佛性山といい 浄土宗の寺で 開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで この辺を本塩竃町という。
寺伝によれば 初め西八条の遍照心院内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので 寺名は信子の法名本覚をとったものである。
その後 梅小路堀川に移転し 応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ 末寺14を有する本山となった。
その後 後柏原天皇の勅願寺となったが 天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。
境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。
すてき
投稿者のプロフィール

くるくるきよせん2992投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。
















