じょうこうじ|真言宗泉涌寺派|瑞寶山
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楽しみ方城興寺のお参りの記録一覧

城興寺さんへ、、、🚶🏻
御本尊 千手観音 慈覚大師作(秘仏)
山号 瑞寶山
宗旨・宗派 真言宗泉涌寺派
通りから少し入った所にあります。この通り、何度か通ったけど今まで気付けませんでした😅💦
お参りして御朱印(直書き)を頂きました🙏





令和七年 御朱印(直書き)を頂きました🙏

京都市南区にあるお寺です。
ぶらりと訪れたお寺でしたが 由緒がしっかり書かれていて 洛陽三十三所観音霊場札所でした。
こういうとき ぶらり散策の醍醐味を感じます。
九条通と烏丸通の交わる交差点のすぐ近くで こんな所に札所のお寺があるとは思いませんでした。
烏丸通から路地を20mほど入った所に山門があります。
大きく二十二番札所と書かれた看板があったので すぐ分かりました。
いつもの京都市の由緒書があって 期待大です。
本堂も立派なのですが どうやら摂社の薬院社も有名のようでした。
大きな由来の書かれたパネルがありました。
狛犬の色が赤で珍しいと思いました。
札所ということで御朱印も拝受できました。
南区では札所でも拝受できないことが多かったので これは嬉しかったです。
山号は瑞寶山 宗旨宗派は真言宗泉涌寺派 ご本尊は千手観音 創建年は永久元年(1113年) 開基は藤原忠実です。
ネット情報です。
創設は平安時代後期の応徳2年(1085年)。
寺地は藤原氏の邸宅の一つ九条邸があったところで ここに藤原道長の孫藤原信長がいとなんだ九条堂(または九条院)を起源とする。
その後永久元年(1113年)に藤原忠実がこの堂を寺とし 保安3年(1123年)に伽藍供養がおこなわれたと寺伝は伝えている。
ところが 当時の記録によれば寺伝とは全く異なる経緯が判明する。
すなわち 信長の死後に九条堂はその未亡人であった後室が領し 僧となっていた息子の澄仁が別当を務めていた。
ところが 後室は九条堂を白河法皇に寄進した上 不仲となった澄仁を追放してしまったのである。
そのため 嘉承元年(1106年) 比叡山横川に逃れた澄仁と彼に同情する悪僧・神人が後室が住んでいた関白藤原師通の二条亭を襲撃して報復を加えたものの これに激怒した白河法皇は澄仁を処罰しただけでなく天台座主の仁源に九条堂を与えてしまったのである。
この時点で九条堂は藤原氏の手から失われ 王家領もしくは延暦寺の有力門跡であった梨本門跡領とされ 後に白河法皇の孫で同門跡を継承した最雲法親王が領したと考えられている。
どちらが本当なんでしょうねぇ。
創建当初は広大な寺域をほこったが徐々におとろえ 現在では本堂の観音堂と庫裏 寺内社として薬院社を残すのみである。
江戸時代から観音霊場として有名で 安永9年(1780年)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり 本尊観世音は慈覚大師の作なり」という記載がある。
境内の薬院社は 平安時代初期にこの付近にあった平安京の施薬院に由来し 薬院稲荷として崇敬をあつめてきたが 1877年(明治11年)に城興寺吒枳尼天堂に合祀された。

山門

由緒書


本堂


薬院社の由来

薬院社

変わった色の狛犬


覆屋

摂社 次郎吉稲荷

京都市営地下鉄烏丸線「九条」駅から歩いて1分もかかりません。
創建当初は、広大な敷地を持つお寺さんでしたが現在は観音堂(本堂)と庫裏、寺内社として薬院社を残すのみです。
洛陽三十三所観音霊場 第22番札所
山号:瑞寶山
宗派:真言宗泉涌寺派
御本尊:千手観世音菩薩
創建:1113年(永久元年)

いただいた御朱印です。

九条駅からすぐ。迷わずに行けました。

観音堂(ご本堂)
お経を唱えさせていただきました。


薬院社
平安時代左大臣藤原冬嗣(775ー826)が開設した施薬院がありましたが、鎌倉時代移転。施薬院稲荷の祠が残り、人々は鎮守さまとして崇めたそうです。ところが、1862年(文久2年)火事で消失。再建されたものの、明治になり、辻堂廃止令が出され施薬院稲荷は、城興寺境内の荼枳尼(だきに)天堂に合祀されたとのことです。

城興寺 参拝日 令和5年2月19日
洛陽三十三所観音霊場第二十二番の御朱印を頂きました

洛陽三十三所観音霊場納経帖のページ

洛陽三十三所観音霊場第二十二番の御朱印

洛陽三十三観音再訪 17
地下鉄「九条駅」下車徒歩2分。洛陽三十三観音霊場第22番札所の真言宗寺院。
ご本尊は千手観世音菩薩です。
この付近は、藤原氏全盛期に関白藤原道長の孫で、九条太政大臣こと藤原信長の邸宅である九条殿を構えていました。
1085年に丈六佛を安置した「九条堂」を「城興院」を建て、1122年に白河法皇の院宣をもって道場としました。
京都駅八条口から九条通へ向かう通りから少し中に入ったところにあります。



境内に併設されている施薬院稲荷の薬院社です。
病気平癒と家族円満のご利益があるそうです。

本堂です。
藤原信長「九条邸」邸宅跡。
藤原信長没後、藤原忠実がこれを寺に改めたのが起源。
当時は顕・密・禅・律の4宗兼学の仏教道場であったが、平家がここを奪ったことが藤原氏の逆鱗に触れ、このことが平氏討伐の一因となった。
藤原家九条邸跡、ということで当時は広大な敷地を有していたがその後衰退。
現在は本堂のみが残されている。
また、ここには明治の廃仏毀釈の折りに一旦は廃社が言い渡された施薬院稲荷社がある。
廃社になるところをこの寺に嘆願し、「女稲荷」と崇められていた陀枳尼天(だきにてん)のお堂に合祀。
以来、施薬院の稲荷が陀枳尼天様の元に婿入りした、として、施薬院のもともとの病気平癒に加え、夫婦円満として崇められるようになった。
現在の境内。とても小さいです。
施薬院と陀枳尼天の2稲荷を祀る、薬院社。
なんかシーサーぽいおしし。
本堂。
次郎吉稲荷。どんな願いでも1つだけ叶えてくれる、とされる。
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