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じょうこうじ

城興寺のお参りの記録(1回目)
京都府九条駅

投稿日:2025年01月19日(日) 20時58分54秒
参拝:2024年12月吉日
京都市南区にあるお寺です。
ぶらりと訪れたお寺でしたが 由緒がしっかり書かれていて 洛陽三十三所観音霊場札所でした。
こういうとき ぶらり散策の醍醐味を感じます。
九条通と烏丸通の交わる交差点のすぐ近くで こんな所に札所のお寺があるとは思いませんでした。
烏丸通から路地を20mほど入った所に山門があります。
大きく二十二番札所と書かれた看板があったので すぐ分かりました。
いつもの京都市の由緒書があって 期待大です。
本堂も立派なのですが どうやら摂社の薬院社も有名のようでした。
大きな由来の書かれたパネルがありました。
狛犬の色が赤で珍しいと思いました。
札所ということで御朱印も拝受できました。
南区では札所でも拝受できないことが多かったので これは嬉しかったです。
山号は瑞寶山 宗旨宗派は真言宗泉涌寺派 ご本尊は千手観音 創建年は永久元年(1113年) 開基は藤原忠実です。
ネット情報です。
創設は平安時代後期の応徳2年(1085年)。
寺地は藤原氏の邸宅の一つ九条邸があったところで ここに藤原道長の孫藤原信長がいとなんだ九条堂(または九条院)を起源とする。
その後永久元年(1113年)に藤原忠実がこの堂を寺とし 保安3年(1123年)に伽藍供養がおこなわれたと寺伝は伝えている。
ところが 当時の記録によれば寺伝とは全く異なる経緯が判明する。
すなわち 信長の死後に九条堂はその未亡人であった後室が領し 僧となっていた息子の澄仁が別当を務めていた。
ところが 後室は九条堂を白河法皇に寄進した上 不仲となった澄仁を追放してしまったのである。
そのため 嘉承元年(1106年) 比叡山横川に逃れた澄仁と彼に同情する悪僧・神人が後室が住んでいた関白藤原師通の二条亭を襲撃して報復を加えたものの これに激怒した白河法皇は澄仁を処罰しただけでなく天台座主の仁源に九条堂を与えてしまったのである。
この時点で九条堂は藤原氏の手から失われ 王家領もしくは延暦寺の有力門跡であった梨本門跡領とされ 後に白河法皇の孫で同門跡を継承した最雲法親王が領したと考えられている。
どちらが本当なんでしょうねぇ。
創建当初は広大な寺域をほこったが徐々におとろえ 現在では本堂の観音堂と庫裏 寺内社として薬院社を残すのみである。
江戸時代から観音霊場として有名で 安永9年(1780年)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり 本尊観世音は慈覚大師の作なり」という記載がある。
境内の薬院社は 平安時代初期にこの付近にあった平安京の施薬院に由来し 薬院稲荷として崇敬をあつめてきたが 1877年(明治11年)に城興寺吒枳尼天堂に合祀された。
城興寺(京都府)
山門
城興寺(京都府)
由緒書
城興寺(京都府)
城興寺(京都府)
本堂
城興寺(京都府)
城興寺(京都府)
薬院社の由来
城興寺(京都府)
薬院社
城興寺(京都府)
変わった色の狛犬
城興寺(京都府)
城興寺(京都府)
覆屋
城興寺(京都府)
摂社 次郎吉稲荷

すてき

御朱印

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