あんしょうじ
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安祥寺ではいただけません
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安祥寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年11月13日(水)
参拝:2024年11月吉日
京都市山科区にあるお寺です。特別拝観の時期でしたのでお参りしました。
令和元年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として 本尊の十一面観音立像が初めて一般公開されて以来 一般公開を行うために寺観の整備が進められたそうです。
特別拝観といっても年に何日というのではなく そこそこ拝観できる日がありました。
JR山科駅から15分ほど歩きました。少し山手に上がってきているので街の音は聞こえず静かにお参りできます。
本堂の観音堂だけでなく地蔵堂や大師堂も立派な建物でした。
本坊のお庭 五智遍明庭(ごちへんみょうてい)は今年の5月に作庭されたばかりのようです。
納経所の横には「せむい」という寺菓房がありますが こちらも今年の3月にオープンしたばかりでした。
国宝の木造五智如来坐像を有しますが もともと多宝塔に安置されていたものの京都国立博物館に寄託されていて 多宝塔は明治39年に焼失しましたが難を逃れたそうです。
とても古い歴史のあるお寺ですが 応仁の乱で焼失して廃寺になっていた過去をもちます。
山号は吉祥山 院号は宝塔院 宗旨宗派は高野山真言宗 ご本尊は十一面観音(重要文化財) 創建年は嘉祥元年(848年) 開山は恵運 開基は五条后(藤原順子) 中興年は慶長18年(1613年) 中興は政遍です。
由緒については
嘉祥元年(848年)に 仁明天皇女御で文徳天皇の母・五条后(藤原順子)の発願によって 恵運(入唐僧)が唐の長安にある青龍寺より青龍権現を請来して鎮守とし 創建された。
安祥寺には醍醐寺同様 裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。
この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。
先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり その後恵運に帰依した五条后によって「下寺」が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在は東寺蔵)によると 上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が 下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・楼門などがあったとされる。
また 塔頭の坊舎が七百余宇もあったという。
しかし 五条后が死去した後は朝廷の庇護を失って次第に衰微していったようで 『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。
平安時代後期にこの寺に入った第11世宗意律師は上寺はそのままとし 下寺の復興を図っている。
その他 宗意は「安祥寺流」を創流して諸高僧が相続いて董席して弘法大師嫡流として相承されていく。
すでに荒廃した上寺に加え 応仁の乱により下寺も兵火に掛かって焼失し 当寺は完全に廃寺となってしまった。
徳川家康より深い帰依を受けていた第28世政遍は 衰頽の現状と復興を家康に上訴して慶長18年(1613年)にかつての境内地の大半を安堵されて再興を果たした。
とありました。
令和元年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として 本尊の十一面観音立像が初めて一般公開されて以来 一般公開を行うために寺観の整備が進められたそうです。
特別拝観といっても年に何日というのではなく そこそこ拝観できる日がありました。
JR山科駅から15分ほど歩きました。少し山手に上がってきているので街の音は聞こえず静かにお参りできます。
本堂の観音堂だけでなく地蔵堂や大師堂も立派な建物でした。
本坊のお庭 五智遍明庭(ごちへんみょうてい)は今年の5月に作庭されたばかりのようです。
納経所の横には「せむい」という寺菓房がありますが こちらも今年の3月にオープンしたばかりでした。
国宝の木造五智如来坐像を有しますが もともと多宝塔に安置されていたものの京都国立博物館に寄託されていて 多宝塔は明治39年に焼失しましたが難を逃れたそうです。
とても古い歴史のあるお寺ですが 応仁の乱で焼失して廃寺になっていた過去をもちます。
山号は吉祥山 院号は宝塔院 宗旨宗派は高野山真言宗 ご本尊は十一面観音(重要文化財) 創建年は嘉祥元年(848年) 開山は恵運 開基は五条后(藤原順子) 中興年は慶長18年(1613年) 中興は政遍です。
由緒については
嘉祥元年(848年)に 仁明天皇女御で文徳天皇の母・五条后(藤原順子)の発願によって 恵運(入唐僧)が唐の長安にある青龍寺より青龍権現を請来して鎮守とし 創建された。
安祥寺には醍醐寺同様 裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。
この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。
先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり その後恵運に帰依した五条后によって「下寺」が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在は東寺蔵)によると 上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が 下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・楼門などがあったとされる。
また 塔頭の坊舎が七百余宇もあったという。
しかし 五条后が死去した後は朝廷の庇護を失って次第に衰微していったようで 『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。
平安時代後期にこの寺に入った第11世宗意律師は上寺はそのままとし 下寺の復興を図っている。
その他 宗意は「安祥寺流」を創流して諸高僧が相続いて董席して弘法大師嫡流として相承されていく。
すでに荒廃した上寺に加え 応仁の乱により下寺も兵火に掛かって焼失し 当寺は完全に廃寺となってしまった。
徳川家康より深い帰依を受けていた第28世政遍は 衰頽の現状と復興を家康に上訴して慶長18年(1613年)にかつての境内地の大半を安堵されて再興を果たした。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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