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かざんいなりじんじゃ

花山稲荷神社の御由緒・歴史
京都府 椥辻駅

ご祭神宇迦之御魂大神、神大市比売大神、大土御祖大神
ご由緒

第六十代醍醐天皇の御代、延喜三年(西暦903年)三月に山階に住む外祖父・宮道氏の館に行幸あそばされた際、その時たまたま道を当地、花山のあたりに取られました。
この辺りの美しい景色に見とれて、しばらく車をお止めになられました。その夜、天皇のご覧になった夢に、白髪・白鬚の老人が現れて「私をこの花山の地に祀ってくだされば、永く国民と国土を護るでありましょう」と申されました。天皇がその名をお尋ねになりますと、老人は「私は宇迦之御魂」と答えて
「跡たれて光やわらぐ西の山 人の願いを三つの社に」
と言う御神詠を高らかに繰り返しつつ、消えておしまいになられました。
夢からお覚めになった天皇は国民と国土の繁栄を願われ、御神託の通りに勅命をお出しになり、上中下の社殿を造営させて、三柱の大神を勧請されたと伝えられております。これ即ち、当社の創立であります。
古くには当社を西山稲荷と呼び、「花山」という社号は御神詠から、また当社を厚く御崇敬になった花山天皇の御名にちなんで花山稲荷と呼ばれたとも、或は当地の旧名「花山」によるものとも言われております。
更には、一条天皇も御崇敬厚く、永延二年(西暦988年)勅し、社殿を再建されました。高倉天皇の御世には、平清盛の嫡子、小松内府平重盛が承安四年(西暦1174年)二月、伏見稲荷に参詣した夜、夢の中で神託を受けました。この時、花山の神様は「汝、世を治めようとするなら、少しの野心もあってはならんぞ。身を慎めよ。」と戒められた後、
「朝日さす西の山端に跡たれて 人の願いを満てぬことなし」
と御神詠をお与えになられました。そこで、重盛は人を遣わして、花山村に稲荷社を探させ、自らも参詣しましたが、社殿神域の荒廃を嘆いて、源太夫判官を奉行に任じ、南北300メートルの地を区切って社地と定め、諸社殿を立派に復興させました。
以後幾多の災難を防ぎ、益々御神徳を発揮されたので、人々の崇敬が厚かったのですが、惜しくも寿永二年(西暦1183年)十二月、盗賊に放火され、社殿・旧記等すべて焼失したと言われております。これ以降の事跡は相次ぐ戦乱のため不明でありますが、城砦があったという記録があります。
いつの頃か、花山寺の辺りに住んでいた僧覚栄が宝殿一宇を建立し、また貞和年中(西暦1340年頃)に洛中の人、一色六郎定員が洛中洛外に勧進して社殿の復興に尽くしたと伝えられています。天文年間(西暦1532年頃)から以後、参詣者が絶えず、特に元禄年間(1700年頃)には民間の崇敬者が多くなり、稲荷講が設立されて、洛中の人々が団体参詣するようになり大いに賑ったということです。
明治初年(西暦1870年頃)、勅命により村社となり、昭和初年ころ(西暦1930年頃)まで相変わらずの賑わいを見せておりましたが、大東亜戦争後、一時寂れました。戦後は宗教法人花山稲荷神社として、神社本教に所属し再出発、次第に復興し、平成十五年(西暦2003年)には御鎮座一一〇〇年の式年大祭を盛大に執り行いました。

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