社格は旧指定村社(明治六年村社・昭和三年指定村社)ですが、伏見に於ける最も古い神社の一つで、旧久米村の産土神として崇敬されていました。
室町時代の「伏見九郷之図」を見ますと、久米村のところに本殿の前に諸建物と神宮寺である西方寺が描かれています。
興味をひくのは「白菊石」と「良基墓」が描かれているところです。
いずれにしても旧石井村の御香宮と匹敵する規模と信仰をもった社で、桓武天皇以降歴代天皇のご崇敬も厚く、行幸を賜ったり修繕の勅を下されるなどしていました。
正安元年(1299年)後伏見天皇は荘園を寄進し誠に殷盛をきわめましたが、応仁の乱による焼失ののち、伏見宮貞常親王によって再興され、後柏原天皇の御代に修繕の勅があって過日の社勢を取り戻しました。
しかしその後ほどなくして、豊臣秀吉による伏見城築城の際に現在地より西方250米の御駕篭町へ移されてしまいました。旧社地には近年まで「白菊井」と呼ばれる名水がありました。
祠官の金松弥三郎宗広は本願寺の存覚に歸依して元亨二年(1322年)境内に久米寺を再興し、文和四年(1355年)に西方寺と改められました。
慶長九年(1604年)喜運寺が創建された時、金札宮はその鎮守杜として現在の鷹匠町に移転し、明治の神仏分離で神社は独立し現在に至っています。
現在の社殿は、弘化三年(1846年)伏見奉行内藤豊後守の許可により造営を始め嘉永元年(1848年)完成したものです。
本殿の縁に座る一対の狛犬は実に品良くのびやかで、往時の金札宮の繁栄を物語っています。
※ホームページより抜粋 |