つなしきゆきえてんまんぐう(まつおたいしゃけいがいまっしゃ)
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楽しみ方綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)のお参りの記録一覧

京都市下京区にある神社です。
京都の町は碁盤の目のように・・・なんて聞くことがありますよね。
確かに洛中だったエリアでは 町の区画がブロックのように長方形になっていることが多いです。
ですが この綱敷行衛天満宮のある地は少し変わっています。
神社のすぐ南から三角州のようになっているのです。それもその幅は8mぐらい。
川があるわけでもないので 区画整理の時に何かがあったのでしょうね。
社殿は南向きに建てられていて 鳥居は南側と西側にありました。
正面・南側から境内に入りました。
本殿は覆屋の中にあります。
保存状態が良いと思うのですが それなりの歴史を感じさせる本殿でした。
こういう色合いが好きです。(昭和初期と予想)
手水舎は覆屋には奉納提灯が多くあり 地域の氏子様だけでなく 会社やお店も奉納されていました。
皆さまで守ろうという願いの表れですね。
境内社で3柱祀られていました。
白太夫大神と末吉大明神と もう一つは不明でした。
覆屋の壁に由緒書が貼られていました。
綱敷行衛天満宮 由緒書
祭神 菅原 道真 公
由緒
網敷天満宮・行衛天満宮 弐社に別れ 共に古来 西七条村に奉斎せられしを 昭和九年合弁をなし現地に鎮座したるものにして 網敷天満宮に関する古記録によれば 付近に高さ数十丈 枝葉四方に繁茂し 山の如く見ゆる榎あり 世人 榎の森と称したり この森の傍らに広大な菖蒲池あり 四季を通じ花絶えざる景勝の地たり。乳母文子七条村より出て仕うを以て道真公には白太夫なる者を随え しばしばこの地に遊び この森を閑静の勝地と称し 別荘を建て 菖蒲池にて御舟遊あり 里人の調進せし網を船網として慰み 或はこの船寄の網を円座としその上に座し 詩歌を詠み給いしが里の童これを真似せしかば さても優しき童なり 其程 我を尊む事なれば我が姿を残し置かむと 網敷の御像を自ら描きて その父子に与えたり。後 冤罪の為 筑前に下らせ給いても 帰洛の勅命なき身の 京洛を思いて先に里人に与えし 画像を形見となし榎の森に祀るべしと 白太夫に命じて文子に告げらる。父子小祠を建てんとせしも 公を憚り 為し得ず討ち過ぎたりしに 或夜夢に「この地に来るとも身を入るべき宿なし。疑はずして我が住居を作るべし」と託宣あり。遂に一字を建立す 榎寺と名づけ広大なる地域を有し 霊験顕著なり。
菅原道眞を祀る旧村社。綱敷天満宮は洛陽天満宮二十五社の一で その由緒を「山州名跡志」は「伝不詳 按ズルニ綱敷トハ菅相公筑紫ニ遷リタマフ時 博多ニ於テ船ヨリ上リ玉ヘルニ 御座無フシテ船ノ綱ヲ敷テ御座トナス 此時一夜ニ於テ白髪ト成玉ヘリ 世人其御相好ヲ図シテ綱敷像トモ 一夜白髪ノ御影トモ云フ也 其神像ヲ安置スル故ナル歟」と記す。
行衛天満宮は靱負天満宮とも記され 名称の由来を「山州名跡志」は「此宮ノ前南北ニ通ル路アリ 是ヲ靱負通ト号ス 仍テ号ルナリ」とする。「北野天神縁起」には 天慶五年(九四二)西京七条に住む「賤女にあや子といひける者」に 北野の馬場に社を建てよという菅原道真の託宣があり しばらく自宅に祀ったが 天慶九年に北野に社殿を移したとあるが その多治比文子の旧宅にちなんだものと社伝はいう。現在は綱敷天満宮に合祀される。
ネット情報です。
もとは綱敷天満宮と行衛天満宮という二つの天満宮。
これが昭和9年(1934年)に合併したものらしい。
現在地は綱敷天満宮があったところで その西に行衛天満宮があったという。
この二つの天満宮の創建は不詳。
綱敷天満宮は 菅原道真が筑紫に左遷され 博多仁上陸した時 船の綱を敷いて御座としたところ 一夜にして白髪となった。
道真のその様を画にし 綱敷天神像とか 一夜白髪の御影と呼び 社名はその神像を祀ったことに由来するという。

正面 南側

社号の石柱

扁額

手水舎

本殿

覆屋の中

境内社 不明

境内社 左:白太夫大神 右:末吉大明神

西側鳥居
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