ほんりゅうじ(ほんみょうこうりゅうじ)
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本隆寺(本妙興隆寺)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月25日(木)
参拝:2024年7月吉日
京都市上京区にあるお寺です。
山門がとても立派で ずしんと構えています。
閉じられているのですが 横から境内に入れます。
境内は広く 境内摂社(不明)もありますが 重要文化財に指定されている祖師堂が工事中のため拝観できませんでした。
境内塔頭も多く すべて回るとけっこう時間がかかりました。
御朱印は拝受できると思っていたのですが 社務所に人がおらず 拝受できませんでした。
山号は慧光山 宗旨宗派は法華宗真門流 寺格は総本山 ご本尊は三宝尊 創建年は長享2年(1488年) 開山は日真です。
由緒については
寺伝によれば 妙本寺の日具に師事していた日真が 法華経の解釈について論争があって妙本寺を出て行き 長享2年(1488年)に四条大宮に当寺を建立したとする。
なお 同年に六角西洞院に草庵として建立され 翌延徳元年(1489年)に四条坊城に移ったとする異説もある。
当寺は後柏原天皇などの支援を得て法運は隆盛したが 天文5年(1536年)に天文法華の乱が起きて伽藍は焼失し 堺に避難した。
その後 天文11年(1542年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下したことにより 同年の春には当寺は京に帰還して杉若若狭守邸の跡地である現在地に再建がなされた。
また 天文11年(1542年)に帰洛後 一条堀川に再興され 天正12年(1584年)に豊臣秀吉の命で現在地に移転したとする異説もある。
承応2年(1653年)に 京都御所の炎上による大火によって類焼し諸堂を失うが本尊は無事であった。
明暦3年(1657年)に本堂は名匠坂上作左衛門尉吉貞の手により再建された。
祖師堂も本堂と同じ頃の建立とみられる。
西陣では享保15年(1730年)と天明8年(1788年)に大火があり 本隆寺も一部類焼した。
なかでも天明8年(1788年)の天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが当寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。
このことから「焼けずの寺(不焼寺)」の別称がある。
とありました。
山門がとても立派で ずしんと構えています。
閉じられているのですが 横から境内に入れます。
境内は広く 境内摂社(不明)もありますが 重要文化財に指定されている祖師堂が工事中のため拝観できませんでした。
境内塔頭も多く すべて回るとけっこう時間がかかりました。
御朱印は拝受できると思っていたのですが 社務所に人がおらず 拝受できませんでした。
山号は慧光山 宗旨宗派は法華宗真門流 寺格は総本山 ご本尊は三宝尊 創建年は長享2年(1488年) 開山は日真です。
由緒については
寺伝によれば 妙本寺の日具に師事していた日真が 法華経の解釈について論争があって妙本寺を出て行き 長享2年(1488年)に四条大宮に当寺を建立したとする。
なお 同年に六角西洞院に草庵として建立され 翌延徳元年(1489年)に四条坊城に移ったとする異説もある。
当寺は後柏原天皇などの支援を得て法運は隆盛したが 天文5年(1536年)に天文法華の乱が起きて伽藍は焼失し 堺に避難した。
その後 天文11年(1542年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下したことにより 同年の春には当寺は京に帰還して杉若若狭守邸の跡地である現在地に再建がなされた。
また 天文11年(1542年)に帰洛後 一条堀川に再興され 天正12年(1584年)に豊臣秀吉の命で現在地に移転したとする異説もある。
承応2年(1653年)に 京都御所の炎上による大火によって類焼し諸堂を失うが本尊は無事であった。
明暦3年(1657年)に本堂は名匠坂上作左衛門尉吉貞の手により再建された。
祖師堂も本堂と同じ頃の建立とみられる。
西陣では享保15年(1730年)と天明8年(1788年)に大火があり 本隆寺も一部類焼した。
なかでも天明8年(1788年)の天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが当寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。
このことから「焼けずの寺(不焼寺)」の別称がある。
とありました。
すてき
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