ほうおんじ
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報恩寺ではいただけません
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報恩寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月08日(月)
参拝:2024年6月吉日
京都市上京区にある寺院です。
客殿(方丈)は文政元年(1818年)に再建されたもので 本尊の阿弥陀三尊像は快慶の作と言われています。また 客殿の庭園は枯山水庭園です。
鐘楼の梵鐘は平安時代の作で 「撞かずの鐘」(重要文化財)と呼ばれています。
応仁の乱の際には陣鐘に使われたと伝わります。
庫裏(?)の壁には金剛力士像が置かれていますが これは鎌倉時代のものだそうです。
山門の手前には石橋があるのですが これはもともとこの下を小川が流れていたことによるものだそうです。今では埋め立てられているそうですが 小川通の名の由来になっているそうです。
また空海作と伝わる大黒天像もあるそうです。(国立博物館寄託)
客殿に入ることができませんでしたので 特別拝観かな?を待ちたいと思います。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
寺伝では 室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺として創建されたという。
室町時代中期には 八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
とのことでした。
客殿(方丈)は文政元年(1818年)に再建されたもので 本尊の阿弥陀三尊像は快慶の作と言われています。また 客殿の庭園は枯山水庭園です。
鐘楼の梵鐘は平安時代の作で 「撞かずの鐘」(重要文化財)と呼ばれています。
応仁の乱の際には陣鐘に使われたと伝わります。
庫裏(?)の壁には金剛力士像が置かれていますが これは鎌倉時代のものだそうです。
山門の手前には石橋があるのですが これはもともとこの下を小川が流れていたことによるものだそうです。今では埋め立てられているそうですが 小川通の名の由来になっているそうです。
また空海作と伝わる大黒天像もあるそうです。(国立博物館寄託)
客殿に入ることができませんでしたので 特別拝観かな?を待ちたいと思います。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
寺伝では 室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺として創建されたという。
室町時代中期には 八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
とのことでした。
石柱
由緒書
山門
山門前の石橋
地蔵堂
内陣
客殿(?)と庭園
賓頭盧尊者
庫裏
金剛力士像がこちらにあります
庫裏の瓦が魔除けの瓦(蛇)だそうです
パンフレットが貼ってありました
中庭
梵鐘が平安時代のものだそうで
鐘楼(梵鐘)
重要文化財に指定
古いのかどうか分からず
黒田官兵衛と長政の位牌が安置されているそうです
黒田長政について書かれていました
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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