きょうとりょうぜんごこくじんじゃ
京都霊山護國神社のお参りの記録一覧(2ページ目)
清水寺様を後にし、産寧坂、ニ寧坂を下り京都霊山護国神社様へ🚶
ここには坂本龍馬、中岡慎太郎のお墓があると言うことでお墓参りをしてきました🙏
拝殿
坂本龍馬、中岡慎太郎の像
襲撃の説明
お墓からの眺望
京都霊山護国神社(きょうと-りょうぜん-ごこく-じんじゃ)は、京都神社ともいわれている。
祭神は、1853年以降の幕末、維新に戦没した志士、第二次世界大戦までの京都府出身の戦死兵など英霊7万3000柱が祀られている。
◆歴史年表 江戸時代後期、1809年、村上都愷(くにやす)は、時宗の正法寺境内に「霊明神社」を建立した。以後、幕末期の動乱で犠牲になった、尊皇攘夷の志士の葬儀が行われる。各藩の戦没者が祀られた。
1862年、12月14日、津和野藩・福羽美静、古川躬行、世良利貞ら60人が霊山に集う。祭主は古川、会頭・福羽は祝詞を奏上し、1853年以来の殉難者の霊を弔う。招魂祭私祭の始まりになる。霊山に長州清末藩処士・船越清蔵が葬られ、墳墓第一号になる。
近代、1868年、5月10日、第122代・明治天皇の太政官布告により、「霊山官祭招魂社」として、全国に先駆け創立された。私祭から官祭になる。7月、山口藩主・毛利敬親により「山口藩招魂社」(祭神216柱)が建てられた。招魂社の始まりになる。
京都靈山護國神社(きょうとりょうぜん~)は、京都府京都市東山区にある神社。旧指定護国神社、現在は神社本庁の別表神社。靖國神社よりも古い招魂社として知られる。また、坂本龍馬、木戸孝允、中岡慎太郎、高杉晋作など、有名な幕末勤王志士を祀っていることでも知られる。
幕末に各藩がそれぞれ維新の殉難者をここ霊山に祀ったのが起源。1868(明治元年)5月の太政官布告により我が国初の官祭招魂社とされ、社号を「霊山官祭招魂社」とし、各藩は社殿を造成した。
1939年内務大臣布告により社号が「京都霊山護国神社」と改称され、戦後GHQ占領下で一時期「京都神社」と名乗ったが、独立後元の社名に復した。
当社は、JR京都駅からバスで北東へ3km、東山安井バス停から東に500m進んだ高台にある。境内は山際にあって、平地部分に通常の護国神社があり、斜面に段々に設定された小スペースに幕末志士などの墓や慰霊碑が並んでいる。
参拝時は週末の昼ごろで、今にも雨が降りそうな曇天であったが、非観光客と思しき家族連れなどがちらほら参拝に来ていた。
バス通り(府道143号)から高台寺南門通りを200m東に向かうと現れる、鳥居と社号標。この左手は高台寺エリア。ここから道の呼称が変わり、<維新の道>となる。
維新の道(坂道)を200m登ると、境内入口に着く。咲き誇る桜の花が護国神社のイメージとオーバーラップする。
境内に入ってすぐに目に飛び込んでくる景色。奥に社殿、左手に手水舎など、右手は社務所と山の斜面。
まずは左手の<手水舎>。
社殿全景。中央が拝殿でその両脇にも建物があり、本殿が見えないタイプ。
拝殿全景。
拝殿の左手には、慰霊碑など各種石碑が整然と並んでいる。
入口右手すぐの<社務所>。
授与所は小ぢんまり。御朱印はこちら。奥は<霊山歴史館>の入口。
入口を出ると、向かいには<幕末維新ミュージアム>がある。なるほど、だからこの道の名は<維新の道>なのか。納得...笑
以前は霊明神社の一部で坂本竜馬や木戸孝允らのお墓があります。
お墓をお参りするのは有料となりますが、こういう所では珍しく自動改札となっています。
左が坂本竜馬、右が中岡慎太郎のお墓。
木戸孝允のお墓。
木戸孝允の妻松子のお墓。
大村益次郎のお墓。
品川弥二郎の石碑だけあったので周辺を探したのですがお墓が見つからず諦めて帰りました。どうやら、護国神社ではなく正法寺にお墓があるようです。
熊本藩招魂社
福岡県招魂社
鳥取県招魂社
東京裁判を連合国の復讐劇と批判し、唯一無罪判決を出したパール判事のお墓もあります。
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