にいたまつしまじんじゃ
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楽しみ方新玉津島神社のお参りの記録一覧

京都市下京区にある神社です。
さきほど投稿した永念寺は こちら新玉津島神社に向かう途中でお見掛けしました。
こちら新玉津島神社には以前お詣りしたことがあるのですが その時は拝殿まわりの工事中で 風情がないというか境内が落ち着きのない状態でしたので 再訪したというわけです。
社殿は以前のままでしたが 拝殿まわりの石畳(?)がきれいに敷かれていました。
一部が駐車場として整えられていました。
こちらの本殿は西向きになっていて 拝殿も西側にあるのですが そちらに行くためには 北側にある鳥居をくぐり 北から南に下り 直角に曲がって拝殿に進みます。
(言葉にすると伝わりにくそうだなぁ)
由緒書には
この神社は 文治(ぶんじ)2年(1186六)後鳥羽天皇の勅命により 藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊(とし)成(なり)が 五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に 和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀(まつ)られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来する。
それに先立つ寿永2年(1183) 後白河法皇の院宣により 藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載(せんざい)和歌集」を編纂(へんさん)し始めた。
ちょうどその年 木曽義仲が京に攻め入り 平家一門は都落ちするが 門下の一人である平忠度(たいらのただのり)は 危険を顧みずこの屋敷に引き返し 「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で 俊成は その中から次の一首を選び 千載和歌集に載せたという。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山さくらかな
江戸時代には 「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で 松尾芭蕉の師である北村季吟(きぎん)が 約7年間 この神社の宮司として住み 万葉集の注釈書「万葉拾穂抄(しゅうすいしょう)」の編纂に励んだ。
これらの由縁から 今も多くの人が短歌 俳句 文章の上達祈願に訪れている。
と書かれていました。

北側にある参道の鳥居

社号の石柱

鳥居の扁額

京都市の由緒書(駒札)

参道は南北にのびています

手水舎 使ってなさそう

境内社 天満宮と秋葉神社

西側から見て 拝殿

お賽銭箱の上に 鹿

御簾の奥に本殿

見えそうで見えない

万葉集の一部かな

拝殿に掛けられた~~~由緒書のような~~~

京都市下京区にある神社です。
こちらも町中のこじんまりとした神社さんです。
拝殿正面を工事中で こちらには何ができるのでしょうか。
正面鳥居から参道を歩き 直角に曲がって拝殿と本殿が配置されています。
少し変わった配置だと思いました。
石鳥居の内側に 木の門があり 開け閉めできるようになっています。
この形も初めて見ました。
もともと別荘の一部だったのでしょうか。
由緒書を見ると
この神社は 文治(ぶんじ)2年(1186六)後鳥羽天皇の勅命により 藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊(とし)成(なり)が 五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に 和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀(まつ)られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来する。
それに先立つ寿永2年(1183) 後白河法皇の院宣により 藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載(せんざい)和歌集」を編纂(へんさん)し始めた。
ちょうどその年 木曽義仲が京に攻め入り 平家一門は都落ちするが 門下の一人である平忠度(たいらのただのり)は 危険を顧みずこの屋敷に引き返し 「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で 俊成は その中から次の一首を選び 千載和歌集に載せたという。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山さくらかな
江戸時代には 「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で 松尾芭蕉の師である北村季吟(きぎん)が 約7年間 この神社の宮司として住み 万葉集の注釈書「万葉拾穂抄(しゅうすいしょう)」の編纂に励んだ。
これらの由縁から 今も多くの人が短歌 俳句 文章の上達祈願に訪れている。
と書かれていました。
やはり邸宅地に建てられた神社でした。

正面石鳥居 内側に木製の門があります

由緒書

手水舎

天満宮(左)と 秋葉神社(右)

拝殿

拝殿からの本殿

本殿
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