くさかべよしみじんじゃ
草部吉見神社のお参りの記録一覧
RPGゲームやファンタジー映画の様な神社です。神社仏閣は先人が選びに選んだ良い場所か誰かが天啓を得た場所になりますが、すでに神様が住んでいたのかな?と、感じる神社でした。当日は参拝者がほぼいませんでしたが、ノスタルチックな休憩所に最新式のトイレ、常に管理している境内、氏子さんにとても愛されている感 など、吸い込まれる様な神社でした。
体感はもっと降った気がする
前衛的で無駄がなく勇敢な感じ 焼き物で珍しい
こちらは木製で優しさを感じる
鷲が猿を襲っている もしかしたら助けている?
なにがどうして、このシーンの彫刻なのか物語を知りたいです。
境内は広く、御神木、御神池などゆっくり参拝できました。
創建は阿蘇神社に先立つこと6年と言われる。近隣の大社であり、由緒としても関連のある阿蘇神社への強い意識がある。当社御祭神は阿蘇神社でも祀られている。
日子八井命は、神武天皇69年、東遷の時、日向高千穂から草部に入り、しばらく川走の窟に住んだ後、当社現鎮座地の池を干し宮居を定めた。
この時襲ってきた大蛇を斬り焼いたとされ、大蛇が血を流しながら逃げて行ったところを血引原(現 地引原)、焼かれた所を灰原といい、今もこの地名が残っている。
宮居を定めたその翌年、甥っ子にあたる健磐龍命(神八井命の御子で、阿蘇大神)が下向、これを迎え、請われて娘を健磐龍命の妃とした。
この姫が阿蘇都比咩で、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担ったという。
宮居は草を束ねて壁としたことにより、この地を草部と呼ぶようになり、さらに「此社吉宮床(ここぞよきみやとこ)」と言われたとの伝承から、社号が吉見となったと伝わる。
日子八井命と神八井命の弟が、第2代綏靖天皇。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)には、豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され、権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めたという。
江戸期になり、寛政5年(1793年)に祠官家が復興、文化7年(1810年)には祝部家が再興された。
社殿は、弘治2年(1556年)に甲斐左近将親成によって造営され、後傷みが激しくなったため、明暦2年(1656年)に里人らによって、現在の社殿に補修された。
以後明治25年(1892年)までに18回修理されたと伝えられる。
社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿は鳥居より石段を百数十段下ったところにある、いわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置。
鵜戸神宮(宮崎県日南市)、一之宮貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられる。
草部吉見神社(くさかべよしみじんじゃ)
旧社格:郷社
御祭神:日子八井命、比咩御子命、天彦命、天比咩命、阿蘇都彦命、阿蘇都比咩命
新彦命、彌比咩命、速瓶玉命、若彦命、新比咩命、彦御子命
日本三大下り宮の一つ。
御朱印は書置きを頂きました。
国道325号線に標識があるのでわかりやすい場所にあります。
鳥居左側に駐車場もあります。
鳥居。
誰もいないであろう早朝に参拝しました。
確かに見事な下り宮です。
御社殿。
神楽殿。
御神木の大杉。
手水舎の右手の鳥居から下った先に御塩井・吉ノ池(八功徳水)があり、
不老長寿の長命水と称される湧き水を飲用することが出来ます。
吉ノ池。
静かに水が湧き出しています。
早朝の参拝時は御朱印はなくなっていましたので、
お昼頃に再度参拝し御朱印を頂きました。
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