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草部吉見神社の御朱印・御朱印帳
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創建は阿蘇神社に先立つこと6年と言われる。近隣の大社であり、由緒としても関連のある阿蘇神社への強い意識がある。当社御祭神は阿蘇神社でも祀られている。
日子八井命は、神武天皇69年、東遷の時、日向高千穂から草部に入り、しばらく川走の窟に住んだ後、当社現鎮座地の池を干し宮居を定めた。
この時襲ってきた大蛇を斬り焼いたとされ、大蛇が血を流しながら逃げて行ったところを血引原(現 地引原)、焼かれた所を灰原といい、今もこの地名が残っている。
宮居を定めたその翌年、甥っ子にあたる健磐龍命(神八井命の御子で、阿蘇大神)が下向、これを迎え、請われて娘を健磐龍命の妃とした。
この姫が阿蘇都比咩で、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担ったという。
宮居は草を束ねて壁としたことにより、この地を草部と呼ぶようになり、さらに「此社吉宮床(ここぞよきみやとこ)」と言われたとの伝承から、社号が吉見となったと伝わる。
日子八井命と神八井命の弟が、第2代綏靖天皇。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)には、豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され、権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めたという。
江戸期になり、寛政5年(1793年)に祠官家が復興、文化7年(1810年)には祝部家が再興された。
社殿は、弘治2年(1556年)に甲斐左近将親成によって造営され、後傷みが激しくなったため、明暦2年(1656年)に里人らによって、現在の社殿に補修された。
以後明治25年(1892年)までに18回修理されたと伝えられる。
社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿は鳥居より石段を百数十段下ったところにある、いわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置。
鵜戸神宮(宮崎県日南市)、一之宮貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられる。
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