かわわじんじゃ
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川勾神社ではいただけません
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川勾神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年03月24日(水)
参拝:2021年3月吉日
川勾神社(かわわ~)は、神奈川県中郡二宮町にある神社。式内社で、相模国二之宮。旧社格は県社。周辺地名の「二宮町」は当社に因む。「二宮大明神/二宮明神社」とも称される。
社伝によると、創建は垂仁天皇の時代、磯長国造(しながのくにみやつこ)の阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命により磯長国鎮護のために創祀。(その後、磯長国は東隣の相武(さがむ)国と合併して相模国となった。)日本武尊は東征の途中、当社で奉幣祈願したとされる。
平安期の927年『延喜式神名帳』においては、「相模国余綾郡 川勾神社」と記載されている。
武家の時代、1192年源頼朝が北条政子の安産祈願のため神馬を奉納。その後社殿造営と社領寄進。戦国時代には上杉謙信の小田原遠征の兵火で社殿を焼失、その後、後北条氏が社殿を再建、当社を鬼門守護社として崇敬。1591年徳川家康の朝鮮出兵に際し祈祷札を献上、爾後江戸期を通して朱印地を与えられた。
当社は、JR東海道線・二宮駅の西方、道のり2.5kmほどの位置にある。東京から車だと、小田原厚木道路・二宮ICから南に2.5km。周囲は軽いアップダウンのある農地が多いエリアで、境内は一段高い場所にある。境内はさすが二宮と言える十分な広さがあって、神聖な雰囲気に満たされている。
参拝時は週末の午後で、参拝者は自分以外も5組ほど車で来ていた。
社伝によると、創建は垂仁天皇の時代、磯長国造(しながのくにみやつこ)の阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命により磯長国鎮護のために創祀。(その後、磯長国は東隣の相武(さがむ)国と合併して相模国となった。)日本武尊は東征の途中、当社で奉幣祈願したとされる。
平安期の927年『延喜式神名帳』においては、「相模国余綾郡 川勾神社」と記載されている。
武家の時代、1192年源頼朝が北条政子の安産祈願のため神馬を奉納。その後社殿造営と社領寄進。戦国時代には上杉謙信の小田原遠征の兵火で社殿を焼失、その後、後北条氏が社殿を再建、当社を鬼門守護社として崇敬。1591年徳川家康の朝鮮出兵に際し祈祷札を献上、爾後江戸期を通して朱印地を与えられた。
当社は、JR東海道線・二宮駅の西方、道のり2.5kmほどの位置にある。東京から車だと、小田原厚木道路・二宮ICから南に2.5km。周囲は軽いアップダウンのある農地が多いエリアで、境内は一段高い場所にある。境内はさすが二宮と言える十分な広さがあって、神聖な雰囲気に満たされている。
参拝時は週末の午後で、参拝者は自分以外も5組ほど車で来ていた。
神社入口。大小看板と社号標。
鳥居と石扁額(左下端)。
この石扁額は、伊藤博文の揮毫。
境内に続く石段。
藁葺屋根の<随神門>。
随神門を抜け、境内全景。
まず参道左側の<神輿庫>。
神輿庫の隣に<手水舎>。
神輿庫対面の建物。
参道左側の<神楽殿>。
参道右側の<社務所>。
拝殿遠景。
拝殿近景。
拝殿正面と<二宮大明神>の扁額。
社殿全景。社殿は1932年に郷社から県社への昇格内示を受けて新築着工したが、大東亜戦争や戦後の近代社格制度廃止の影響を受け、19年後の1951年に完成した、波乱万丈の社殿。
拝殿の右側にある<東五社>。小さな社に五社を詰め込むなんて欲張りだなと思ったら、祭神は全21柱。欲張り過ぎ...笑
拝殿、透塀と統一感のある本殿。写真だと分かりにくいが彫刻がきれい。
拝殿の左側にある<西五社>。ごちらの御祭神は控え目で全7柱。
社務所の端で特設会場になっている授与所。御朱印はこちら。
すてき
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惣一郎1269投稿
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