つるみねはちまんぐう
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鶴嶺八幡宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月10日(月)
参拝:2021年4月吉日
鶴嶺八幡宮(つるみね~)は、神奈川県茅ケ崎市にある神社。旧社格は郷社。
平安後期の康平年間(1058年~1065年)に源頼義が東征の際、石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建、その後源氏が現在地に分祀したのが当社の始まり。治承年間(1177年~1181年)に源頼朝が懐島八幡宮を鎌倉由比郷に遷座したが、当社は存続し本社八幡と称した。同時期、源頼朝は当社に領地を寄進し、のちに平景能に社殿修復を命じた。戦国時代の元亀年間(1558年~1573年)に兵火に遭い、社殿等を焼失。江戸時代の正保年間(1644年~1648年)に当社別当・常光院の僧・朝恵が社殿を再建、参道を整備し松を植えた。明治時代の神仏分離令で別当常光院を廃止し、当社が存続することとなり、後に郷社に列格した。
当社は、JR東海道線・茅ヶ崎駅の北西2kmの準住宅街にある。社殿は南北に長く、公道が境内地を南北に分断している。南側の境内は松並木の参道と池、懐島弁財天があり、北側の境内には本社社殿と摂末社社殿がある。
参拝時は週末の夕方で、参拝者は自分以外にも数組いた。
平安後期の康平年間(1058年~1065年)に源頼義が東征の際、石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建、その後源氏が現在地に分祀したのが当社の始まり。治承年間(1177年~1181年)に源頼朝が懐島八幡宮を鎌倉由比郷に遷座したが、当社は存続し本社八幡と称した。同時期、源頼朝は当社に領地を寄進し、のちに平景能に社殿修復を命じた。戦国時代の元亀年間(1558年~1573年)に兵火に遭い、社殿等を焼失。江戸時代の正保年間(1644年~1648年)に当社別当・常光院の僧・朝恵が社殿を再建、参道を整備し松を植えた。明治時代の神仏分離令で別当常光院を廃止し、当社が存続することとなり、後に郷社に列格した。
当社は、JR東海道線・茅ヶ崎駅の北西2kmの準住宅街にある。社殿は南北に長く、公道が境内地を南北に分断している。南側の境内は松並木の参道と池、懐島弁財天があり、北側の境内には本社社殿と摂末社社殿がある。
参拝時は週末の夕方で、参拝者は自分以外にも数組いた。
神社入口の鳥居と社号標。<鶴嶺通り>に面しているが、鳥居が奥まっていることと、社号標が低く地味なので、あまり目立たない。
入口には溝に橋が架かっているが、使われていない古い神橋が中央に陣取っているため、通れるのは幅の狭い赤い橋のみ。
鳥居と狛犬。ここから150mほど参道が続く。
参道の両側は、ところどころ古木が立つ草原になっている。左右の草原の真ん中に、石造の祠がある。左側(西側)は<天照皇大神宮>、右側(東側)は<懐島弁財天>。
境内全景。変わった境内の造りで、参道が終わり、神域の手前に一般道が横切っていて、境内が2つに分断されている。
第2の境内に入ってすぐ右手にある<梵鐘>。神仏習合の名残り。
第2の境内の左手にある<寺務所>。御朱印はこちら。
神域は一段高いところにある。神域手前右側に<手水舎>。写真右側の<銀杏の巨木>がすごい。
拝殿全景。手の込んだ彫刻がきれい。彫刻の経年劣化状況を見ると、この社殿はまだ古くなさそう。
拝殿に向かって左側に建つ、末社<淡島神社>。社殿の左側に<針塚>、右側に<ガン封じの祈願石>がある。
社殿全景。オーソドックスだが、手入れが行き届いているのが分かる。
本殿左奥に建つ<鉾宮(ほこのみや)神社>。
本殿の北側に、強固なガード壁。
本殿右奥に建つ<鶴峯稲荷神社>。
鶴峯稲荷神社の近くに立つ<夫婦楠>。2本の木の間を通ってから参拝すると、良縁が深まったり、良縁に出会ったりするという。
本殿の右側に建つ<御神木>。樹齢900年あまりの槙の木。
拝殿に向かって右側に立つ<銀杏の古木>。強烈な太さ。社伝によると樹齢千年、高さ29m、目通り9m。何本もの幼木が癒着して成長した珍しいものらしい。
すてき
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惣一郎1269投稿
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