< 神奈川県神社庁Webサイトからの引用
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=419&cd=1205032&scd=&npg=1 >
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永正九年(一五一二)、北条早雲が小田原城の支城として玉縄城を築いた際、
城内東北隅(諏訪壇)に鬼門除の鎮護神として信州諏訪神社を勧請した。
爾来一族の崇敬厚かったが、
天正十七年(一五八九)、城主氏勝、豊臣秀吉に敗れ、
元和五年(一六一九)、徳川氏城郭を廃棄せしとき、
村民、神社の荒廃を憂い現地に奉遷した。
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< 石碑の碑文 >
由 緒
この神社は、今からおよそ四百二十年前当時の玉縄城主 北条綱成公が、
軍神の称ある信州諏訪の建御名方冨命・八 坂刀売命二座の神霊を
玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと 伝えられている。
その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、
さらに幾星霜を経 て現在のこの位置に移された。
この時すでに鎌倉権五郎景 政一門の霊を祀った御霊神社があり、
この神社と諏訪神社 と合祀され村民の両大社への崇敬あつく、
五穀豊穣、村内 安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行なわれている。
ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であ ったが、
天正十五年七十三才で没した。
公一門の墓は社殿 脇の山頂にある。
昭和六十三年十二月吉日 諏 訪 神 社 |