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大仙寺ではいただけません
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大仙寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年06月07日(水)
参拝:2023年6月吉日
山は登るだけで終わりではない。頂上でずっと過ごすわけではなく、やがては下るのだ。人生も同じ。
(五木寛之先生の「下山の思想」から)
横浜市保土ヶ谷駅近くにある大仙寺は神戸山惣持院神宮寺と号して天禄年間(970-973)に創建、その後衰微したものの、応永年間(1394-1428)に鎮淳法印(応永28年寂)が再興、西方山安樹院大仙寺と号して開山した。
昔、仲良くしていた女性が、家を建てる際には地名をよく吟味した方がいい、と言われていた。
何とか台、何とか丘、どういう場所か表しているのだと。
ここ、霞台。大仙寺から上は急な坂になっており、明治期以降に住宅地になった。
殆ど、ジャガイモ畑だった山の上の土地をフランスの宣教会が買い取り、教会が建ち、あっという間に住宅地となったのだ。
保土ヶ谷教会は、昭和13年(1938年)7月、フランスのパリ外国宣教会の宣教師たちにより建設されました。当時の日本のカトリックは、前年に東京教区に初の日本人大司教(土井辰雄大司教)が任命されるなど、日本人信徒が著しく増加しており、あらたに横浜教区が東京教区より分離され、それまで東京を担当していたパリ外国宣教会が、この新設横浜教区を育てていくこととなりました。増加する横浜地域の信徒に対応して、まず保土ヶ谷の地に教会を建てることが決定され、フランス・グビナン出身のシェレル神父が初代司祭に任命されました。シュレル神父は明治24年(1892年)に宣教師として来日、すでに神田教会・白百合学園(東京)の建設や大震災からの復興などで大きな功績がある老神父でした。台風による建設地の地すべりなど教会建設にあたって多々の障害はありましたが、神父は情熱を持って建設を続け、私財のすべてを投じさらに神田教会の信徒からの寄付、母国フランスからの協力など尊い浄財に支えられて、鐘楼のないロマネスク様式の聖堂がぶどう畑が続く保土ヶ谷・霞台の地に完成したのです。(某教会のパンフレットより抜粋)
私は、ある時、突然にこの崖から突き落とされた。神父と多くの信者の手によってだ。
「他の人と同じ事が出来ない」
「共同体として相応しくない」
「ミサの時間、じっと座っていられない」
確かに、そうなんだろう。集団の中に馴染めなかった。
崖の下、つまり、キリスト教の世界で言う地獄には救いなんかない。
んじゃ、この崖の下の線路に飛び込むか。
と思っていたのだが、よくわからんが、真下に他人との協調性のない私と同行二人をしてくれる方がいたのだ。
もしかしたら、亡くなった父や両祖父母(父の家と母の実家は歩いてすぐで菩提寺が同じであった)が、弘法大師様に私を引き合わせてくれたのかもしれない。
境内には、父の大好きだった渡哲也の歌でお馴染みのクチナシの花が咲いていた。
クチナシの香 同行するは 大師さま
(五木寛之先生の「下山の思想」から)
横浜市保土ヶ谷駅近くにある大仙寺は神戸山惣持院神宮寺と号して天禄年間(970-973)に創建、その後衰微したものの、応永年間(1394-1428)に鎮淳法印(応永28年寂)が再興、西方山安樹院大仙寺と号して開山した。
昔、仲良くしていた女性が、家を建てる際には地名をよく吟味した方がいい、と言われていた。
何とか台、何とか丘、どういう場所か表しているのだと。
ここ、霞台。大仙寺から上は急な坂になっており、明治期以降に住宅地になった。
殆ど、ジャガイモ畑だった山の上の土地をフランスの宣教会が買い取り、教会が建ち、あっという間に住宅地となったのだ。
保土ヶ谷教会は、昭和13年(1938年)7月、フランスのパリ外国宣教会の宣教師たちにより建設されました。当時の日本のカトリックは、前年に東京教区に初の日本人大司教(土井辰雄大司教)が任命されるなど、日本人信徒が著しく増加しており、あらたに横浜教区が東京教区より分離され、それまで東京を担当していたパリ外国宣教会が、この新設横浜教区を育てていくこととなりました。増加する横浜地域の信徒に対応して、まず保土ヶ谷の地に教会を建てることが決定され、フランス・グビナン出身のシェレル神父が初代司祭に任命されました。シュレル神父は明治24年(1892年)に宣教師として来日、すでに神田教会・白百合学園(東京)の建設や大震災からの復興などで大きな功績がある老神父でした。台風による建設地の地すべりなど教会建設にあたって多々の障害はありましたが、神父は情熱を持って建設を続け、私財のすべてを投じさらに神田教会の信徒からの寄付、母国フランスからの協力など尊い浄財に支えられて、鐘楼のないロマネスク様式の聖堂がぶどう畑が続く保土ヶ谷・霞台の地に完成したのです。(某教会のパンフレットより抜粋)
私は、ある時、突然にこの崖から突き落とされた。神父と多くの信者の手によってだ。
「他の人と同じ事が出来ない」
「共同体として相応しくない」
「ミサの時間、じっと座っていられない」
確かに、そうなんだろう。集団の中に馴染めなかった。
崖の下、つまり、キリスト教の世界で言う地獄には救いなんかない。
んじゃ、この崖の下の線路に飛び込むか。
と思っていたのだが、よくわからんが、真下に他人との協調性のない私と同行二人をしてくれる方がいたのだ。
もしかしたら、亡くなった父や両祖父母(父の家と母の実家は歩いてすぐで菩提寺が同じであった)が、弘法大師様に私を引き合わせてくれたのかもしれない。
境内には、父の大好きだった渡哲也の歌でお馴染みのクチナシの花が咲いていた。
クチナシの香 同行するは 大師さま
すてき
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