当神社は、小田原北條家に属せし、橋本伊賀守がその守護神として奉斎し、正親町天皇の御宇天正四年(室町時代)に創建された神社と言われている。
天徳寺の持神社であった琴平神社が、明治政府の神仏分離政策に基づき、お寺より離れて、神社として祭祀を行う事と成った。
大正十二年九月の関東大震災で総欅権現造りの社殿を始め、社務所・石鳥居・六十九段の石段等が倒壊したが、昭和三年の昭和天皇御大典を記念して、社殿・社務所を再建し、更に昭和六年に木造鋼板張の鳥居及び堅石造りの石段をも復活させて、旧来の神社の姿に蘇った。
その御神徳は顕著にして、本牧・根岸の地元は基より、遠く房総方面からも参拝者が有り、特に漁業関係者の信仰が厚かった。
しかし乍ら、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に依り、社殿を含む一切の建物、工作物が消失し、更には終戦後、進駐軍が境内地を含む附近一帯を接収した為に、神社の再建が出来ず、仮に中区西之谷に鎮座する北方皇太神宮に、奉斎して祭祀を行っていた。
平成元年に接収解除に伴う横浜市の区画整理事業も終了し、戦前の鎮座地(中区本牧字天徳寺七〇八番地)が山頂公園計画地の内に含まれている為、その近くの現在地に換地され、平成三年五月に四十五年振りに、社殿・社務所等を再建して、仮鎮座地の北方皇太神宮より遷座し現在に至っている。(境内掲示より)
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