せんげんじんじゃ
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楽しみ方浅間神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年08月03日(日) 13時22分10秒
参拝:2025年7月吉日
浅間坂の途中に鎮座しています。
正徳3年(1713)に富士浅間神社より分霊を仰ぎ社殿を創建しました。神社創建の6年前に富士山が大噴火をしており、その火山灰は相模原にも降り注いだといいます。このことも創建に影響があったのかもしれません。
神社はもともと現在地より40mほど西の山中にあり、昭和45年の社殿新築時に現在地に移転されました。その際に観心寺境内より秋葉神社が移築されました。
【当麻城(当麻要害)】
浅間神社の南側は城山と呼ばれ、鎌倉時代初期に源範頼(源頼朝の異母弟で義経の異母兄)の家臣であった『当麻太郎』がこの地に城を築いたといわれています。当麻城または当麻要害と呼ばれました。
当麻氏は後に薩摩に下りましたが、一族の中には当地に残り戦国時代、小田原北条氏に仕えた者もいました。当麻三人衆がそれにあたり、その一人の当麻豊前守の屋敷があったとか、狼煙台として使われたという言い伝えも残っています。
城の中心地であったと思われるところに浅間神社が鎮座していますが、遺構が不明瞭であるため伝承の域をでないそうです。
(参照・参考)
・平成さがみはら風土記稿
・日本城郭全集第4(東京・神奈川・埼玉)
正徳3年(1713)に富士浅間神社より分霊を仰ぎ社殿を創建しました。神社創建の6年前に富士山が大噴火をしており、その火山灰は相模原にも降り注いだといいます。このことも創建に影響があったのかもしれません。
神社はもともと現在地より40mほど西の山中にあり、昭和45年の社殿新築時に現在地に移転されました。その際に観心寺境内より秋葉神社が移築されました。
【当麻城(当麻要害)】
浅間神社の南側は城山と呼ばれ、鎌倉時代初期に源範頼(源頼朝の異母弟で義経の異母兄)の家臣であった『当麻太郎』がこの地に城を築いたといわれています。当麻城または当麻要害と呼ばれました。
当麻氏は後に薩摩に下りましたが、一族の中には当地に残り戦国時代、小田原北条氏に仕えた者もいました。当麻三人衆がそれにあたり、その一人の当麻豊前守の屋敷があったとか、狼煙台として使われたという言い伝えも残っています。
城の中心地であったと思われるところに浅間神社が鎮座していますが、遺構が不明瞭であるため伝承の域をでないそうです。
(参照・参考)
・平成さがみはら風土記稿
・日本城郭全集第4(東京・神奈川・埼玉)








境内社 秋葉神社


個性的な手水鉢

地神塔(左)、道祖神(右)、真ん中はわからず。

櫓


この奥が廓と思しき所です。
見たことない虫が地面にいっぱいいて、歩くたびに飛び回るので怖くてこれ以上先に行けなかった😭
見たことない虫が地面にいっぱいいて、歩くたびに飛び回るので怖くてこれ以上先に行けなかった😭

浅間坂を下った先には「瓢禄玉」という川魚専門の料理屋があります。幕府への献上品とされていた相模川の鮎が味わえます。
すてき
投稿者のプロフィール

ひなぎく823投稿
幼少期から神社や神話に触れてきました。ご由緒やその土地の歴史、かかわる人々に想いを馳せたり考察をするのが好きです。歴史を調べながら関連する場所を数珠繋ぎに巡っています。 すてきやフォローありがと...もっと読む
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