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毛越寺ではいただけません
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毛越寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2022年05月07日(土)
参拝:2022年4月吉日
12年ぶりの参拝でしたが中尊寺で時間使い過ぎて閉園ギリギリで入れましたが、ゆっくり散策出来ず残念でした。
またゆっくり訪れてみたいと思います
奥州藤原氏2代の藤原基衡(ふじわらのもとひら)により再建され、3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の時代には堂塔40、僧坊500を越える大寺院となり隆盛を極めました。
毛越寺(金堂円隆寺)が建てられたのは、藤原基衡の治世の久寿2年(1155年)頃。
平家が栄華を極めた平安時代の後期、奥州藤原氏が館を置いた平泉は、平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化が花開く大都市になっていたのです。
平家が没し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降も、東大寺の再建に使う鍍金も、源頼朝が奉じた1000両に対して、5000両を供するなど朝廷との直接的な関係を維持し、幕府と対立しますが、毛越寺、中尊寺は鎌倉幕府とも良好な関係を続けています。
その証拠として、文治5年(1189年)には、源義経を匿(かくま)ったために幕府軍の攻撃を受け、奥州藤原氏は滅亡しますが、鎌倉幕府は、正応元年(1288年)に中尊寺金色堂に覆堂を付け、嘉元2年(1304年)には中尊寺経蔵を修理しています。
そんな毛越寺ですが嘉禄2年(1226年)の火災で円隆寺金堂焼失、さらに天正元年(1573年)、葛西氏と大崎氏の兵火で南大門、観自在王院を焼失(2つの阿弥陀堂がありましたが、舞鶴が池のみ現存)、現在は18坊を残すのみとなっています。
江戸時代初期の寛文5年(1665年)には、徳川幕府と天台宗との強い結びつきから、中尊寺とともに上野東叡山寛永寺の末寺となっています。
またゆっくり訪れてみたいと思います
奥州藤原氏2代の藤原基衡(ふじわらのもとひら)により再建され、3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の時代には堂塔40、僧坊500を越える大寺院となり隆盛を極めました。
毛越寺(金堂円隆寺)が建てられたのは、藤原基衡の治世の久寿2年(1155年)頃。
平家が栄華を極めた平安時代の後期、奥州藤原氏が館を置いた平泉は、平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化が花開く大都市になっていたのです。
平家が没し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降も、東大寺の再建に使う鍍金も、源頼朝が奉じた1000両に対して、5000両を供するなど朝廷との直接的な関係を維持し、幕府と対立しますが、毛越寺、中尊寺は鎌倉幕府とも良好な関係を続けています。
その証拠として、文治5年(1189年)には、源義経を匿(かくま)ったために幕府軍の攻撃を受け、奥州藤原氏は滅亡しますが、鎌倉幕府は、正応元年(1288年)に中尊寺金色堂に覆堂を付け、嘉元2年(1304年)には中尊寺経蔵を修理しています。
そんな毛越寺ですが嘉禄2年(1226年)の火災で円隆寺金堂焼失、さらに天正元年(1573年)、葛西氏と大崎氏の兵火で南大門、観自在王院を焼失(2つの阿弥陀堂がありましたが、舞鶴が池のみ現存)、現在は18坊を残すのみとなっています。
江戸時代初期の寛文5年(1665年)には、徳川幕府と天台宗との強い結びつきから、中尊寺とともに上野東叡山寛永寺の末寺となっています。
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