やさかじんじゃ
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楽しみ方八坂神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年03月07日(土) 08時29分51秒
参拝:2026年2月吉日
岩手県 紫波郡 紫波町 東長岡 天王 に鎮座する、八坂神社 (長岡 八坂神社) 当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼してます。神社対応は 書き置き対応の神社様でした、どの様な神社か引用を用いて調べてみました、八坂神社は、素戔嗚尊(明治維新以前は牛頭天王)を祭神とする祇園信仰の神社である。祇園信仰は、疫病除けを中心とする牛頭天王に対する信仰である。疫病で多くの死者を出した京都で66本の鉾を立てて霊魂をなだめる「祇園御霊会」が6月の例祭として定着し、天延3年(975)には朝廷の奉幣(供物などの奉献)受ける祭に発展した。後の祇園祭の祖型になっている。祇園は京都を代表する花街として知られるが、もともとは仏教の開祖である釈迦が説法を行ったとされるインド北部の仏跡「祇園精舎」に由来する。牛頭天王とは 牛頭天王は、薬師如来や素戔嗚尊を本地仏(神の正体とされる仏)として、仏が悪疫を防ぐ神の形を取って仮に現れた(垂迹)もので、八坂神社に祀られる。『牛頭天王御縁起』によれば、牛頭天王は疫病を広める行疫神・疫病神として恐れられたが、祀り鎮めることで疫病から逃れられるという除疫・防疫の神、さらには万能的な神として祇園社のみならず各地に勧請され牛頭天王信仰が広がった。牛頭天王は、多くの神社で祀られていたが、明治期の神仏判然政策によって祭神を素戔嗚尊に変えられた歴史がある。多くの城館では、築城の際に城や領民の守護を目的に城郭内に神が祀られた。高水寺城跡には、諏訪平・八幡平・天王平・観音平などの名が残っている。かつてここには 諏訪大明神社(諏訪平)・鳥飼八幡宮(八幡平)・牛頭天王社(天王平)などの鎮守社があり、高水寺斯波氏が崇敬していたと伝わる。『祐清私記』によると、近世初期に盛岡藩主南部重信が郡山城(高水寺城の後身)の諏訪大明神社を戌亥(=北西)の地に遷宮したという。現在は3社とも走湯神社の境内社になっている。
八坂神社は人皇第五十代桓武天皇 延暦年中(782〜806)坂上田村麻呂将軍東夷征伐の勅令を奉じ、東奥の霧が山嶽又は岩鷲山(現在の岩手山)に蝦夷の首魁大猛丸という凶賊が巣を成し住み、住民を悩まし、群夷を指揮して王政を軽んじ政に従わず。
将軍皇命を拝し東夷征伐に降る。志和郡長岡村に朝日ヶ郷と言う地あり。四方田圃を囲し一の小丘たる。将軍この地に軍を止める。対陣し遂に勇猛強力なる大猛丸を討伐し首を掲げて京都に帰る。翌年此地、陣跡に武速素盞嗚尊を勧請し、武運長久、祈らせ給う。
その後、文安年中(1444〜1446)奥州の国郡山比爪城(現在の城山)の斯波陸奥州義兼、同族の斯波孫三郎詮直と代々崇敬厚く神領を寄進し、また社殿の補修あり。
天正年中(1573〜1592)斯波氏に代わり南部氏が当地を領するに、藩主南部信直公をはじめ歴代の藩主崇敬厚く、寛永9年(1632)藩主利直公黒印状をもって当社に牛頭天王社の尊称を給わり、共に玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。
其の後、斯波氏退没、南部氏代々崇敬の神社となり社領は勿論の事、常に神饌幣帛の料を供して厚く祭祀を行う。
元禄年中(1688〜1703)藩主重信公社殿御造営寄進。宝永4年(1775)藩主行信公玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。
享保6年(1721)藩主利幹公社殿修復。宝暦5年(1755)藩主利雄公社殿修復。寛政5年(1793)及び文化5年(1808)藩主利敬公社殿修復。文政10年(1827)、天保10年(1839)、文久2年(1862)、いずれも藩主利済公社殿修復なされしも、貞享年中(1684〜1689)に野火により本社末社共に消失す。この時に棟札古器及び神社記なども類焼し、伝記を失うといわれる。
元禄4年(1888)南部領主大膳太夫重信公社殿を再興。古来疫病退散の神として世俗の信仰をあつめる。
古くは朝日森社とも牛頭天王社殿とも呼称されたが、明治4年5月14日(太政官布告)盛岡県神祇官において郷社格となり八坂神社と改称される。明治6時3月再度社格郷社に列せられて以来紫波郡河東一宮として信仰厚く近郷の崇敬者多くをみるに至る。
昭和23年7月神社庁より「宗教法人八坂神社」として位置付けられ、社格を「二級社上」となる
八坂神社は人皇第五十代桓武天皇 延暦年中(782〜806)坂上田村麻呂将軍東夷征伐の勅令を奉じ、東奥の霧が山嶽又は岩鷲山(現在の岩手山)に蝦夷の首魁大猛丸という凶賊が巣を成し住み、住民を悩まし、群夷を指揮して王政を軽んじ政に従わず。
将軍皇命を拝し東夷征伐に降る。志和郡長岡村に朝日ヶ郷と言う地あり。四方田圃を囲し一の小丘たる。将軍この地に軍を止める。対陣し遂に勇猛強力なる大猛丸を討伐し首を掲げて京都に帰る。翌年此地、陣跡に武速素盞嗚尊を勧請し、武運長久、祈らせ給う。
その後、文安年中(1444〜1446)奥州の国郡山比爪城(現在の城山)の斯波陸奥州義兼、同族の斯波孫三郎詮直と代々崇敬厚く神領を寄進し、また社殿の補修あり。
天正年中(1573〜1592)斯波氏に代わり南部氏が当地を領するに、藩主南部信直公をはじめ歴代の藩主崇敬厚く、寛永9年(1632)藩主利直公黒印状をもって当社に牛頭天王社の尊称を給わり、共に玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。
其の後、斯波氏退没、南部氏代々崇敬の神社となり社領は勿論の事、常に神饌幣帛の料を供して厚く祭祀を行う。
元禄年中(1688〜1703)藩主重信公社殿御造営寄進。宝永4年(1775)藩主行信公玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。
享保6年(1721)藩主利幹公社殿修復。宝暦5年(1755)藩主利雄公社殿修復。寛政5年(1793)及び文化5年(1808)藩主利敬公社殿修復。文政10年(1827)、天保10年(1839)、文久2年(1862)、いずれも藩主利済公社殿修復なされしも、貞享年中(1684〜1689)に野火により本社末社共に消失す。この時に棟札古器及び神社記なども類焼し、伝記を失うといわれる。
元禄4年(1888)南部領主大膳太夫重信公社殿を再興。古来疫病退散の神として世俗の信仰をあつめる。
古くは朝日森社とも牛頭天王社殿とも呼称されたが、明治4年5月14日(太政官布告)盛岡県神祇官において郷社格となり八坂神社と改称される。明治6時3月再度社格郷社に列せられて以来紫波郡河東一宮として信仰厚く近郷の崇敬者多くをみるに至る。
昭和23年7月神社庁より「宗教法人八坂神社」として位置付けられ、社格を「二級社上」となる
すてき
投稿者のプロフィール

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宮城県 石巻市に在住、元々出張で日本各地を訪れる機会が在り思い出作りに道の駅スタンプラリーにも参加、気がつけば全国制覇者2022年第184号、今は休日 旅行で全国各地の食べ物、景色、温泉を探索、...もっと読む
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