黄檗宗福聚山
大慈寺のお参りの記録一覧
1673年徳真道空により創建された。
2代住職・逸堂通穎の時に現在地へ移った。
1884年火災により大部分の伽藍を焼失したが、内閣総理大臣・原敬や檀信徒の寄進により堂宇が再建された。
山門(楼門)はこの時の建築(1905年)
原敬は遺骸は盛岡に運び大慈寺に埋葬すること、墓石表面には姓名のみを記すように
遺言しており、1921年東京駅で暗殺された原敬は遺言に従いこの地に葬られている。
本堂
本殿
山門
山門
山門
福聚稲荷
福聚稲荷
福聚稲荷
原家墓所
原敬墓所
江戸初期に日本に伝来した黄檗宗では一般的に宇治の万福寺、長崎に崇福寺などにみられるように、明、清の建築様式で伽藍が造営されている。万福寺を本山とする大慈寺も山門(三門)はじめ本堂などこの宗派特有の様式を基本にして建てられている。
1905年建造とされるこの山門も、下部が木骨ながら土壁で塗り上げられ、その上層に木造瓦ぶき一層を頂く楼門形式である。崇福寺の三門に比べて、屋根や手摺りの意匠など、大慈寺のそれはだいぶ和風にされてはいるが、それでも他宗の寺院の山門からは明らかに異なる形態である。上層の木造部分は切り妻瓦ぶきの屋根の両端にシャチの飾り瓦を乗せ、妻手にはひれつき懸魚の妻飾りが施されている。上層正面には観音開きの扉があり、裏面は丸窓となっており、和風の手すりが一回りしている。この木造上層階が、下層の土塗りの門に直接乗っており、壁に塗り込められた柱で支えられた形となっている。下層部の腰はなまこ壁風に仕上げられており、大陸風の形に和風の趣を与える一つの要因になっている。1970年に屋根の葺き替え、しっくいの塗り替え、土塀だった袖壁の築地壁に改修などが行われている。
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