ふじうちじんじゃ
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藤内神社ではいただけません
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藤内神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年07月04日(日)
参拝:2021年5月吉日
藤内神社は、茨城県水戸市にある神社。式内論社で、旧社格は村社。祭神は経津主命。
社伝によると、奈良時代の721年某日、朝房山(当社西方5kmにある経津主命の神山)に霊光が輝き、その光が当地に降り注いだため社殿を建立したという。異説では、平安時代の嘉祥年間(848年~851年)に神託により香取神宮から経津主命を勧請したともされる。平安時代927年の『延喜式神名帳』では「常陸国 那賀郡 藤内神社」と記載され式内社に列している(ただし、立野神社(水戸)、有賀神社(水戸)も式内論社)。
平安時代後期の1062年、源義家が奥州征伐の途次、当社北西の峰に十万の兵を集め、当社に武運長久の祈願し、社前の藤の枝を折り進軍の鞭としたと言われ、以後その峰は「十万原」と呼ばれる。室町時代の大永年間(1521年~1528年)に社殿を焼失するも、江戸時代の1628年に宍戸藩主秋田実季により再建され、元禄年間(1688年~1704年)には水戸藩主徳川光圀により改築された。
当社は、当社は、JR常磐線・赤塚駅の北方9kmの平地にある。クルマだと常磐道・水戸北スマートICの北西4kmちょっとのところにある。畑作農地が広がるエリアのやや高い場所にあって、南北に走る道路沿いの境内は南北に長い敷地で、境内南端の鳥居から北端の社殿までは長めの参道が続く。境内社は少なく、建物は総じて新しい感じ。
今回は、常陸国の式内論社ということで参拝することに。参拝時は週末の午前中で、自分以外に参拝者はいなかった。
社伝によると、奈良時代の721年某日、朝房山(当社西方5kmにある経津主命の神山)に霊光が輝き、その光が当地に降り注いだため社殿を建立したという。異説では、平安時代の嘉祥年間(848年~851年)に神託により香取神宮から経津主命を勧請したともされる。平安時代927年の『延喜式神名帳』では「常陸国 那賀郡 藤内神社」と記載され式内社に列している(ただし、立野神社(水戸)、有賀神社(水戸)も式内論社)。
平安時代後期の1062年、源義家が奥州征伐の途次、当社北西の峰に十万の兵を集め、当社に武運長久の祈願し、社前の藤の枝を折り進軍の鞭としたと言われ、以後その峰は「十万原」と呼ばれる。室町時代の大永年間(1521年~1528年)に社殿を焼失するも、江戸時代の1628年に宍戸藩主秋田実季により再建され、元禄年間(1688年~1704年)には水戸藩主徳川光圀により改築された。
当社は、当社は、JR常磐線・赤塚駅の北方9kmの平地にある。クルマだと常磐道・水戸北スマートICの北西4kmちょっとのところにある。畑作農地が広がるエリアのやや高い場所にあって、南北に走る道路沿いの境内は南北に長い敷地で、境内南端の鳥居から北端の社殿までは長めの参道が続く。境内社は少なく、建物は総じて新しい感じ。
今回は、常陸国の式内論社ということで参拝することに。参拝時は週末の午前中で、自分以外に参拝者はいなかった。
境内南端にある<一の鳥居>と<社号標>。
まっすぐ伸びる参道を進む。両側には空に向かって真っ直ぐ伸びる木々。
参道の途中にある<二の鳥居>。宮司さん宅がこの右側にあり、御朱印はそちら。
参道左側に<手水舎>。
<拝殿>全景。徳川光圀が改築した由緒ある社殿。
<拝殿>正面。扁額はかかっていない。
拝殿前の<狛犬>は新しいもの。
拝殿後ろの<本殿>。きれいにしてある。
拝殿向かって左側にある表札のない建物。氏子集会所にしては相当しっかりした造り。
社殿周りの境内社。表札がないので、各々何神社かは不明。
社殿周りの石製小祠。
今では多くの神社が夏越の祓でせっちしている<茅の輪くぐり>。当社の茅の輪くぐりは特に歴史が古いそうで、寛政12年(1800年)以降、1年も欠かさず行ってきたとのこと。
<社殿>全景。華美にならず、質実剛健で端正な見た目。
すてき
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惣一郎1269投稿
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