ホトカミでの投稿かきっかけとなり新たに城/城館・戦国武将ノ御朱印をついかすることとなりました。感謝申し上げます。あわせて正式に発表いたします。
赤堂観音蓮華寺の境内は、元々は藤堂高虎が羽柴秀長より但州大屋に知行地三千有石を賜り、公が自身初築城となる"栃尾谷城"と穴太衆による石垣を有する本居館を天正8年頃に普請する。
大屋の地は、但馬国の南西端に位置し、南は播磨国・西は鳥取国隣接し、山陰道の伏線を成し七方向に道を持つ但馬国を守る要の地、また南東に二つ山を超えれば"竹田城"その先は"生野銀山"、北にひと山超えれば"中瀬金山"南には"明延銅山"と、かつては山名氏を"六分の一殿"を支えた資金源でもあり、織田家・豊臣家の資金源となる。天正6年頃は毛利家と織田家で二分された最前線でした。藤堂高虎はこの知行地をえて、新参者ではあったが確固たる地位を確立したものと思われます。高虎公が初めて築城した"栃尾谷城(仮)"は、蓮華寺の裏山で日本百富士の一つ"大屋富士"この山頂から北向きに伸びる尾根に郭をつくり、その規模は想像以上に大きい。殊に注目したいのは、多様性を兼ね備えた実践的な山城で、浅井家の小谷城を彷彿させるもので、知行地内には二か所の支城を構え、築城の名手となる最初の城がここであります。今では、"忘幻の城"ですが・・・。最後に高虎公は石垣に着目していた遺構を本居館跡(蓮華寺境内)に見る事が出来ます。天正前期の石垣は、野面積みで高さは5mほどでした。この高さを克服するために段状に積み重ねた試験的な石垣でした。天正15年家臣にこの地を預け和歌山へ・・・。