りゅうこくじ
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龍谷寺ではいただけません
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龍谷寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年11月07日(火)
参拝:2023年10月吉日
明石漁港近くの寺社巡りの続きです。
先の本立寺から少し東に1分歩いた所にあります。
街の区画1ブロックの半分以上占める境内の広さです。
本堂の大きな屋根が 少し離れていてもよく見えます。
山門はないようですが 門の手前が駐車場になっており 境内の西側は広い墓地になっています。
門を入ってから本堂まで 60mぐらいあるでしょうか 境内は南北に広いです。
境内には 金毘羅大権現と稲荷神社もあります。
山号は瑞雲山 宗旨宗派は臨済宗妙心寺派 ご本尊は延命地蔵願王菩薩 です。
由緒についてはHPに
当時はもともと浄土宗の寺院であったが 元和五年 (1619)に明石藩主小笠原忠政が その母の菩提寺として境内を拡張し 峰高寺と改称して扶持を続けた。
寛永九年 (1632)小笠原忠眞が九州鎮護として豊前小倉に移封されると共に 峰高寺も小倉に移転した。
その後しばらく幕府直轄地となっていたが 寛永十年信州松本から入封した松平氏の二代目丹波守光重時代(1634~1638)に 天叢和尚が峰高寺の跡地に開山し 寺号も瑞雲山龍谷寺と改め臨済宗妙心寺派に所属した。
文献によれば当時の堂宇は総建坪340坪に及び 班内屈指の名刹として尊厳を集めたという。
人々の厚い信仰にささえられ栄えてきた当山も 元禄九年(1696)火災により焼失したため その後寺域や堂宇を縮小して再建し 連綿と法燈を伝えて来たが 残念にも昭和二十年七月(1945)の大空襲で一字残らず灰燼にに帰してしまった。
昭和四十年(1965)に仮本堂を建築したが 平成元年1989)往年の規模(九間×六間)を持つ新本堂の再建に着手 平成三年(1991)開山堂と共に完成した。
とありました。
先の本立寺から少し東に1分歩いた所にあります。
街の区画1ブロックの半分以上占める境内の広さです。
本堂の大きな屋根が 少し離れていてもよく見えます。
山門はないようですが 門の手前が駐車場になっており 境内の西側は広い墓地になっています。
門を入ってから本堂まで 60mぐらいあるでしょうか 境内は南北に広いです。
境内には 金毘羅大権現と稲荷神社もあります。
山号は瑞雲山 宗旨宗派は臨済宗妙心寺派 ご本尊は延命地蔵願王菩薩 です。
由緒についてはHPに
当時はもともと浄土宗の寺院であったが 元和五年 (1619)に明石藩主小笠原忠政が その母の菩提寺として境内を拡張し 峰高寺と改称して扶持を続けた。
寛永九年 (1632)小笠原忠眞が九州鎮護として豊前小倉に移封されると共に 峰高寺も小倉に移転した。
その後しばらく幕府直轄地となっていたが 寛永十年信州松本から入封した松平氏の二代目丹波守光重時代(1634~1638)に 天叢和尚が峰高寺の跡地に開山し 寺号も瑞雲山龍谷寺と改め臨済宗妙心寺派に所属した。
文献によれば当時の堂宇は総建坪340坪に及び 班内屈指の名刹として尊厳を集めたという。
人々の厚い信仰にささえられ栄えてきた当山も 元禄九年(1696)火災により焼失したため その後寺域や堂宇を縮小して再建し 連綿と法燈を伝えて来たが 残念にも昭和二十年七月(1945)の大空襲で一字残らず灰燼にに帰してしまった。
昭和四十年(1965)に仮本堂を建築したが 平成元年1989)往年の規模(九間×六間)を持つ新本堂の再建に着手 平成三年(1991)開山堂と共に完成した。
とありました。
すてき
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