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2025年07月17日(木) 20時26分 bysoo_cyan
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真言宗
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660-0807
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近世から近代にかけて、長洲天満神社と海臨寺は同じ敷地内にあり、一体でした。その当時の様子を描いた「海臨寺絵図」(長洲天満宮・海臨寺絵図)という刷り物の絵図が『尼崎志』第二篇と『長洲小学校百二十年史』に掲載されています。この絵図や『長洲小学校百二十年史』が引く浜口半左衛門著『長洲寺院の縁起考』の記述によれば、東側の天満神社本殿と西側の海臨寺本堂の間に寺子屋の大きな建物があり、この海臨寺の寺子屋が変遷を経て現長洲小学校のルーツとなったといいます。 近代に入ると、明治24年(1891)、旧尼崎城下から官設鉄道の神崎駅(現JR尼崎駅)を経て伊丹方面を結ぶ川辺馬車鉄道が海臨寺の西側に敷設されました。この路線は、摂津鉄道、阪鶴(はんかく)鉄道と変遷したのち明治40年に国有化され、官設鉄道の阪鶴線(神崎駅から北上する路線、のちに福知山線となる)と尼崎支線(神崎駅から南下する路線)になりました。明治44年には、海臨寺西側に金楽寺駅が設置されています。また尼崎支線は、昭和期後半には尼崎港線という通称で知られるようになります。 川辺馬車鉄道の路線は、神崎駅の西側からやや孤を描きつつ直線的に大物(だいもつ)方面に下り、そこからカーブして旧城郭内南浜に入線していました。長洲と金楽寺の集落を避けてその間を通っており、東側に平行している旧中国街道と稲川を避けるため、必然的にこのルートになったものと思われます。 戦後初期、昭和20年代前半の航空写真を見ると、現在長洲天満神社と海臨寺を分断している道路の路線に沿って、空地ができています。この写真だけでは、空襲の焼け跡なのか防空疎開空地の跡なのかはっきりしませんが、尼崎市立歴史博物館所蔵の昭和21年「疎開空地調書」を見ると、神社境内地や周辺の番地が疎開対象地となっています。防空疎開空地として、境内が削られたものであろうと考えられます。 戦後、都市計画道路としての市道尼崎駅大物線が昭和21年5月6日付で決定され、昭和29年12月21日付で最終変更決定されます(『尼崎の都市計画』1991による)。最終変更の2年後、昭和31年には第11回国民体育大会秋季大会が兵庫県で開催され、この道路の南側にあたる大物には相撲会場が設けられているので、国体開催が道路敷設推進の要因となった可能性があります。 なお、昭和2年の市街地図に、すでに長洲天満神社と一部重なる南北の都市計画道路予定が記載されています。昭和初期の都市計画により予定されていた路線が、戦時都市疎開空地を利用する形でやや西寄りにルートを移し、昭和20年代にあらためて敷設決定された可能性があります。 以上の経緯を要約すると、戦時中の都市疎開により長洲天満神社・海臨寺境内の中央部が削られ、戦後この空地に都市計画道路が敷設された結果、長洲天満神社と海臨寺が分断され、海臨寺跡が西側の細長い区画に押し込められたような形になったと考えられます。
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境内自由
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なし
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なし
