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だいかくじ|律宗月峯山

大覚寺の御由緒・歴史
兵庫県 尼崎(阪神)駅

ご本尊千手十一面観音
創建時代推古天皇十三年(605)
開山・開基本願:聖徳太子/開山:琳海上人・開基:日羅上人
ご由緒

現存する尼崎最古の古刹です。本堂以下の建物は明治10年の大火で消失し、再建されたものです。寺伝によれば推古13年(605)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長州の浦に作らせた寺と伝えられています。
大覚寺は正和2年(1313)から天正17年(1589)に至る、中世文書五十六点の「大覚寺文書」(兵庫県指定文化財)を含む多数の古文書を所蔵しますが、この中に「大覚寺縁起絵巻」があります。
この「大覚寺縁起絵巻」は、米国ワシントン・フリーア美術館所蔵の「槻峯寺建立修行縁起絵巻」の下巻を写したもので、その内容を要約しますと、日羅上人が長州の浦の浦人から北方に光を放ち、この長州の浦を照らす稀代の霊地があることを聞き、光明の跡を辿り浦人とともに山に分け入り、聖徳太子の命によって、浦人にこの光を放つ槻木(けやきの一種)の霊木を切らせたところ、生身の千手観音が出現し、そこに寺を建て、槻峯寺と呼ばれましたが宣旨を蒙って、月峯寺とされたということです。
長州の浦の人々は、山の霊地にお参りに行くには遠く容易ではないので、長州の浦に伽藍を建て、燈明をかかげて、ここより遠拝するようになったと、述べられています。この燈明を掲げたお堂が大覚寺の母体である「灯炉堂」です。
 月峯山大覚寺の開創は、南朝大覚寺統・亀山上皇、後宇多天皇の御世が始まった建治元年(1275)東大寺戒壇院円照上人の弟子、中興・琳海上人により能勢・剣尾山の月峯寺の遙拝所である、長洲の「灯炉堂」の地に開かれました。
 正和10年(1315)の「大覚寺絵図」には、下鴨社領長洲御厨内にあり、百済様式の金堂、講堂、三重塔や鐘楼、僧坊を備えた朱塗りの大伽藍に、門前には湯屋や市場も備えた姿が描かれています。この時、皇室守護の「葉菊紋」(二枚の菊の葉で十六弁菊花の天皇家をお守りする姿)の寺紋と後宇多天皇が再興された京都嵯峨大覚寺に由来する寺号を賜り、その山号は能勢の剣尾山山頂の月峯寺(槻峯寺)に由来すると言われています。
 室町幕府第二代将軍足利義詮公が半年間在陣したことから「大覚寺城」と呼ばれ、政治・経済・文化・軍事の中心に成っていた様で、鷺洲荘:(大阪市西淀川区)、富島荘:(常光寺・杭瀬・梶ヶ島、)大洲荘;(尼崎・大物・長洲・金楽寺)の支配権が委託され、足利将軍の天下静謐の祈願状なども残っています。
 元和3年(1877)近世「尼崎城」築城に伴い現在の寺町に移転しました。当初「尼崎城」は大覚寺の寺域にあったことから「大覚寺城」とも呼ばれ、徳川幕府老中もされた尼崎藩主青山公は大覚寺の寺紋である「葉菊紋」を尼崎青山家の家紋としてお使いに成りました。現在東京に尼崎藩青山家下屋敷が有った場所に「青山」の地名が残ります。
 大覚寺門前の市庭は琵琶法師の職能団体である「当道座」を組織した、覚一検校をはじめとする琵琶法師の活動の拠点の一つで、「覚一本平語相伝次第」と呼ばれる『平家物語』の伝来に関わる文書なども伝えています。
 毎年節分の日には「大覚寺身振り狂言」(兵庫県ふるさと文化賞)が奉納され、大阪張子の「金天姫だるま」(昭和40年代廃業の為、京都で制作)に、江戸時代北前船で尼崎の港に運ばれた白板昆布の着物を着せた、開運厄除の縁起物「昆布だるま」(兵庫県郷土玩具)や能楽「芦刈」にちなんだ「芦刈の破魔矢」が授与されます。京都祇園祭では世阿弥の能楽「芦刈」に取材した「芦刈山」が巡行しますが、能楽「芦刈」の舞台である大覚寺では「芦刈からくり堂」で、九代玉屋庄兵衛師制作の能楽『芦刈』を題材にした「からくり人形」の上演があります。
                          -大覚寺HPより-

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