こうごんほうしゃくぜんじ(こうごんじ)
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楽しみ方廣嚴寶積禅寺(広厳寺・廣厳寺)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年10月25日(土) 19時00分02秒
参拝:2025年9月吉日
神戸市中央区にあるお寺です。
安養寺からほど近い場所にあります。
門が開いていたので境内に入らせていただきました。
門柱には 楠木正成菩提所 通称楠寺 とありました。
安養寺も楠木正成公に間接的に繋がるお寺ですし こちらより南の方には公を祀る神社もあります。
ややローカルではありますが 公のお人柄と業績がすばらしかったことが伝わります。
こうなると 神社にもお詣りしなければなりません。(後ほど)
境内には墓所と少しばかりのお庭がありました。
千厳禅師景仰碑がありましたので 千厳禅師が開山かな?と思いました。
境内には大きな会館というかホールのような建物があり 瑠璃光苑というそうです。
調べてみると 個人供養を行う墓所だそうです。
私がお参りした時に ちょうど20名ほどの方が入っていかれたので 法要かも と思ったらホールとして使われているそうなので コンサートかもしれません。
現代のお寺の姿なのかなぁと思いつつ 門の所で合掌しました。
どうしても本堂が見たくて 寺の外周を歩いてみました。
駐車場の入口があって その中に本堂かな?と思われる建物があったのですが 駐車場にはガードマンがいらっしゃったので諦めました。
勝手口かなと思う門があったので そちらで本堂の方を向いて合掌しました。
ネット情報です。
山号は醫王山 宗旨宗派は臨済宗南禅寺派 ご本尊は大醫王・藥師瑠璃光如來 創建年は元徳元年(1329年) 開山は明極楚俊禅師 開基は後醍醐天皇 中興年は延寶年間(1673 – 1681) 中興は千巌宗般 別称は楠寺 札所等は福原西国三十三観音霊場第21番札所です。
後醍醐天皇の勅願により元徳元年(1329年)明極楚俊禅師の勧請開山として創建 医王山広厳宝積禅寺の山号・寺号を賜ったという。
寺伝によれば当時は七堂伽藍完備して子坊13 寺城は4000平米におよんだという。
建武3年(1336年)5月 楠木正成が当寺に参り 明極禅師と問答して大いに悟って湊川の戦いに臨んだと『明極和尚行状録』(偽書説あり。『大清和尚語録』と合わない。)に記されている。
一方で『大清和尚語録』には 当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し その子光範が落成したとある。
延宝年間に千巌宗般(せんがん)が荒廃していたこの寺を再興。
千巌は楠木正成を崇拝し 徳川光圀が楠公の建碑の志あるを知り 請願してこれを完成させた。
「楠公の一族十三人 士卒六十余人 この寺に入りて 建武三年五月二十五日戦死す。禅師(明極)すなはち遺骸を路傍に葬むる。今の墓碑の地なり。」と『摂津名所図会』にみえる。
光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑は 湊川神社が最終的には1869年(明治2年)に墓所と殉節地の両所を必ず含めるものとして境内は確定されたため(湊川神社#社地と造営より) 湊川神社創建当時から同神社境内にある。
なお戦災と震災で大きな被害を受けている。
現在の本堂は2015年に完成した近代的なビルで 本堂のホールは音楽ライブショーなどにも使える多目的ホール「神戸ラピスホール」としても使用できる。
安養寺からほど近い場所にあります。
門が開いていたので境内に入らせていただきました。
門柱には 楠木正成菩提所 通称楠寺 とありました。
安養寺も楠木正成公に間接的に繋がるお寺ですし こちらより南の方には公を祀る神社もあります。
ややローカルではありますが 公のお人柄と業績がすばらしかったことが伝わります。
こうなると 神社にもお詣りしなければなりません。(後ほど)
境内には墓所と少しばかりのお庭がありました。
千厳禅師景仰碑がありましたので 千厳禅師が開山かな?と思いました。
境内には大きな会館というかホールのような建物があり 瑠璃光苑というそうです。
調べてみると 個人供養を行う墓所だそうです。
私がお参りした時に ちょうど20名ほどの方が入っていかれたので 法要かも と思ったらホールとして使われているそうなので コンサートかもしれません。
現代のお寺の姿なのかなぁと思いつつ 門の所で合掌しました。
どうしても本堂が見たくて 寺の外周を歩いてみました。
駐車場の入口があって その中に本堂かな?と思われる建物があったのですが 駐車場にはガードマンがいらっしゃったので諦めました。
勝手口かなと思う門があったので そちらで本堂の方を向いて合掌しました。
ネット情報です。
山号は醫王山 宗旨宗派は臨済宗南禅寺派 ご本尊は大醫王・藥師瑠璃光如來 創建年は元徳元年(1329年) 開山は明極楚俊禅師 開基は後醍醐天皇 中興年は延寶年間(1673 – 1681) 中興は千巌宗般 別称は楠寺 札所等は福原西国三十三観音霊場第21番札所です。
後醍醐天皇の勅願により元徳元年(1329年)明極楚俊禅師の勧請開山として創建 医王山広厳宝積禅寺の山号・寺号を賜ったという。
寺伝によれば当時は七堂伽藍完備して子坊13 寺城は4000平米におよんだという。
建武3年(1336年)5月 楠木正成が当寺に参り 明極禅師と問答して大いに悟って湊川の戦いに臨んだと『明極和尚行状録』(偽書説あり。『大清和尚語録』と合わない。)に記されている。
一方で『大清和尚語録』には 当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し その子光範が落成したとある。
延宝年間に千巌宗般(せんがん)が荒廃していたこの寺を再興。
千巌は楠木正成を崇拝し 徳川光圀が楠公の建碑の志あるを知り 請願してこれを完成させた。
「楠公の一族十三人 士卒六十余人 この寺に入りて 建武三年五月二十五日戦死す。禅師(明極)すなはち遺骸を路傍に葬むる。今の墓碑の地なり。」と『摂津名所図会』にみえる。
光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑は 湊川神社が最終的には1869年(明治2年)に墓所と殉節地の両所を必ず含めるものとして境内は確定されたため(湊川神社#社地と造営より) 湊川神社創建当時から同神社境内にある。
なお戦災と震災で大きな被害を受けている。
現在の本堂は2015年に完成した近代的なビルで 本堂のホールは音楽ライブショーなどにも使える多目的ホール「神戸ラピスホール」としても使用できる。
すてき
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くるくるきよせん2984投稿
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