高野山真言宗亀居山
大願寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
【安藝國 古刹巡り】
大願寺(だいがんじ)は、広島県廿日市市宮島町にある高野山真言宗の寺院。山号は亀居山、院号は放光院。本尊は薬師如来。木造薬師如来坐像、木造釈迦如来坐像、木造阿難尊者立像、木造迦葉尊者立像は国指定の重要文化財。
創建は不詳。寺伝によると、平安時代初期に空海によって開かれたとされるが、鎌倉時代の建仁年間(1201年~1204年)に了海によって開かれたとする説もある。古くから大聖院とともに厳島神社との関係が深かった。明治時代の神仏分離令により厳島神社から八臂弁財天像(秘仏、毎年開帳あり)をはじめとする多くの仏像が遷された。本堂にはこの八臂弁財天像に、阿弥陀如来像と如意輪観音像(護摩堂の元本尊)を脇侍として配置し、宮島現存の仏像中最古の木造薬師如来像、千畳閣の本尊であった木造釈迦如来坐像、脇侍の阿難尊者像・迦葉尊者像、五重塔の本尊であった釈迦如来坐像・脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩の三尊像、多宝塔の本尊であった薬師如来像などを安置している。なお、本堂奥の書院は、第二次長州戦争の時、勝海舟と長州藩士らが会談をした場所として知られている。
当社は、厳島神社の順路出口である西回廊を出てすぐの場所にある。境内には塀や仕切りはなく開放的で、厳島神社を拝観した人は自然に訪れてしまう。境内の造りも広場を中心に、周囲に伽藍が並ぶ造りになっているので非常に参観しやすい。伽藍にはかつて厳島神社から遷された由緒ある仏像が多くあるので見応えも十分。
今回は、宮島観光の1スポットとして参拝することに。参拝は平日の午前中で、上述の通り、厳島神社の参拝者の多くが参拝に訪れていた。
厳島神社の参拝順路出口からすぐの場所にある<仁王門>。
左側の<吽形仁王像>。
右側の<阿形仁王像>。
仁王門をくぐったところにある<龍神>。
仁王門の近くにある<平和観音像>。後ろは厳島神社の国宝<西回廊>。
<本堂>全景。横に長い瓦葺の建物。
参道を進んで左側にある<水屋>。
<本堂向拝>正面。
<本堂>正面。<阿弥陀如来>、<弁才天>、<如意輪観世音菩薩>が安置されている。
隣の間。<不動明王>、<薬師如来>、<毘沙門天>が安置されている。
その隣の間。幕末に勝海舟と木戸義孝が会談した部屋。
国指定の重要文化財である<釈迦三尊仏>が安置されている部屋。鎌倉時代作。
この部屋だけ、何が安置されているか書かれていない...(^_^;)
表からも見える<びんづる尊者像>。
本堂に向かって右手にある<授与所>。御朱印はこちら。
授与所の右隣にある<護摩堂>。
護摩堂には巨大な<不動明王>が安置されている。
本堂の左隣にある<庫裏入口>。昔の山門を移設したのかな。
最後に、庫裏の前に1本だけ立っている梅の木。3月初旬でなかなかの咲具合。(^▽^)/
【令和四年十一月二十二日参拝】
亀居山放光院大願寺[ききょざんほうこういんだいがんじ]は、真言宗で、開基は不明で、鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海[りょうかい]により再興されたと伝えられています。
明治元年(1868)の神仏分離令までは、筥崎宮[はこざきぐう]や宇佐八幡宮など多くの社寺の修理造営を掌っており、また大願寺の僧は、全国を托鉢[たくはつ]できる許可を持っていて、その費用に当てていました。
亀居山とは、千畳閣・五重塔がある塔の岡一帯の海に突き出たところで、空から観ると亀の姿に似ているところから名が付いたといわれています。
大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍[がらん]と呼ばれ多くの堂塔がありました。
現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。
昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝しました。
嚴島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。
また境内の池の中には、弁財天の使いとされる厳島龍神がお祀りしてあります。
本堂には、国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の薬師如来坐像は、弘法大師の作と伝えられています。
また、神仏分離令で千畳閣から移された、行基作と伝えられる釈迦如来坐像と阿難尊者像[あなんそんじゃぞう]・迦葉尊者像[かしょうそんじゃぞう]、五重塔から移された釈迦如来座像・文殊菩薩[もんじゅぼさつ]・普賢菩薩[ふげんぼさつ]の三尊像があります。本堂の正面手前には、賓頭盧尊者[ひんずるそんじゃ]があり、なで仏として親しまれています。
大願寺の本尊厳島弁財天は、相模国[さがみのくに](鎌倉)の江ノ島、近江国[おうみのくに](琵琶湖)の竹生島とともに、日本三大弁財天の一つです。
厳島弁財天大祭は毎年6月17日に行われます。
年に一度この大祭のときに御開帳され、一般の人も拝観することができます。
神仏分離令までは、嚴島神社の御本殿にお祀りしてありましたので、一般の人が拝観する機会は無かったと思われます。
また、平成18年4月に明治時代に焼失した護摩堂が140年ぶりに再建され、一丈六尺(4m)の総白檀の本尊不動明王半迦座像の開眼式[かいげんしき]が行われました。
〜宮島観光協会HP情報より〜
まずは、御朱印から…
厳島神社出口を出てすぐ山門が見えます。
山門
本堂を遠目から📸
本堂 厳島辯財天様がお祀りされています。
御開帳の日(六月十七日)にお参りしてみたいと思いつつ、まだお参りできてません😅
本堂から右側を📸
左側も📸
阿形の狛犬さん
吽形の狛犬さん
護摩堂
手水舎
厳島龍神
お社をアップ
厳島神社参拝後、ロープウェイに乗って
頂上まで。
お天気良くてサイコーの景色!!
山頂から約15分、登って下って登って
いい運動になりました。
消えない炎は宮島の七不思議だそうです。
消えない炎🔥にちなんで
恋人たちの聖地とか。
次回来たときにはロープウェイを
使わず登山したいと思います。
ロープウェイからの景色素敵でした
こんな山道を登って下って
消えない炎🔥だそうです
心願成就!!
【令和三年十一月十一日参拝】
大願寺の弁天様の納経帳です。
三色あり、朱色・黄色・紫色がありました。
紫と朱色どちらにするか❓迷いましたが、今回は朱色に…
裏側は布地の模様のみで、シンプルです。
納経帳に、ご朱印を頂きました😄
仁王門
仁王像
仁王像
✨🐲✨厳島龍神✨🐲✨
小さな池の中に、松が植えてあり、磐境の中にお社、脇に灯籠があって…すごく素敵なんです🥰
お祀りされてるのは、弁天様のお使いの龍神様だそう…
後ろにチラリと見えているのが、確か本堂だったと思いますが、撮影禁止と書かれていたので、仏像は…なのか本堂の建物自体も駄目なのか❓聞いてないので、撮ってません。
厳島龍神のお社✨🐲✨
護摩堂
中に大きなお不動さんがいらっしゃいますが、撮影禁止だったので、建物はどうかな❓と思い境内では撮影しませんでしたが、外から撮った写真があったので、載せておきます。
平和観音
美しい観音様…護摩堂の近くにいらっしゃいました。
【お寺データ】宮島観光協会より
亀居山放光院大願寺[ききょざんほうこういんだいがんじ]は、真言宗で、開基は不明で、鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海[りょうかい]により再興されたと伝えられています。
明治元年(1868)の神仏分離令までは、筥崎宮[はこざきぐう]や宇佐八幡宮など多くの社寺の修理造営を掌っており、また大願寺の僧は、全国を托鉢[たくはつ]できる許可を持っていて、その費用に当てていました。
亀居山とは、千畳閣・五重塔がある塔の岡一帯の海に突き出たところで、空から観ると亀の姿に似ているところから名が付いたといわれています。
大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍[がらん]と呼ばれ多くの堂塔がありました。
現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。
昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝しました。
嚴島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。
また境内の池の中には、弁財天の使いとされる厳島龍神がお祀りしてあります。
本堂には、国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の薬師如来坐像は、弘法大師の作と伝えられています。
また、神仏分離令で千畳閣から移された、行基作と伝えられる釈迦如来坐像と阿難尊者像[あなんそんじゃぞう]・迦葉尊者像[かしょうそんじゃぞう]、五重塔から移された釈迦如来座像・文殊菩薩[もんじゅぼさつ]・普賢菩薩[ふげんぼさつ]の三尊像があります。本堂の正面手前には、賓頭盧尊者[ひんずるそんじゃ]があり、なで仏として親しまれています。
大願寺の本尊厳島弁財天は、相模国[さがみのくに](鎌倉)の江ノ島、近江国[おうみのくに](琵琶湖)の竹生島とともに、日本三大弁財天の一つです。
厳島弁財天大祭は毎年6月17日に行われます。
年に一度この大祭のときに御開帳され、一般の人も拝観することができます。
神仏分離令までは、嚴島神社の御本殿にお祀りしてありましたので、一般の人が拝観する機会は無かったと思われます。
本堂軒下には、明治時代に開催されたパリ万国博覧会に出展された錦帯橋の1⁄25の模型が架けられています。
境内の庭に伊藤博文公お手植えと伝えられる9本松があります。(枯れた為、現在は切り倒されています)
また、平成18年4月に明治時代に焼失した護摩堂が140年ぶりに再建され、一丈六尺(4m)の総白檀の本尊不動明王半迦座像の開眼式[かいげんしき]が行われました。
戦国時代の天文7年(1538)尊海上人が、大内義隆の援助で、一切経[いっさいきょう]を求めて、当時李朝であった朝鮮国に渡りました。
この時の日記が、大願寺所蔵の瀟湘八景[しょうしょうはっけい]屏風の裏面に記録されて、当時の朝鮮国の様子を記した貴重な資料で「尊海渡海日記」として国の重要文化財に指定されています。
江戸時代末期の慶応2年(1866)、第2次長州戦争の際、幕府方の勝海舟と長州藩の広沢真臣[さねおみ]らがここの書院で講和会談をいたしました。
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
1
0