ちくぶしまじんじゃ
竹生島神社群馬県 館林駅
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天正十八年(1590)榊原康政公は十万石の領主として館林に入城すると間もなく城下町の南に接する今の本町三丁目付近の開拓、さらにその南方新宿方面に連絡する大通りの新設などを検断職青山出雲、小寺丹後両氏に命じた。その結果慶長二年(1597)には城下町を縦貫する大通りが完成。両名はこれらの功によって、江戸口門外に給田地を与えられ附近はたちまちのうちに商家軒を並べるという活況を呈した。そこで両検断は協議の末、古くから住民が信仰していた弁才天を鶴生田川北岸の大通り付近に建立した。ところが年月を経ると人家が増え、境内も手狭になったので、東北に当たる城沼つづきの池水に囲まれた現在地に移し、浮島弁天と称した。
弘化三年(1846)城主秋元家の位牌所が城内鷹匠町に建てられると同寺住職が別当となった。それから三年後の嘉永二年(1849)堂宇を再建。そのときの棟札に別当泰安寺、検断青山素右衛門ほか地守、世話人ら地元関係者の名がある。
明治元年(1868)神仏混交の禁令によって弁才天は仏であるため鎮守とすることができなくなり、やむなく検断青山四郎二は戎屋が近江国の商人で毎年業務見回りに来館する同店主人に依頼、翌二年同国琵琶湖北岸に鎮座する竹生島神社(市杵島姫命)を勧請した。
明治六年十一月谷越村(俗称田町・荒宿)鎮守として村社に列せられ崇敬された。
大正四年(1915)下町区長坂田百次郎、氏子総代正田卯平、森尻太吉、小暮兵吉、鈴木金五郎、渡辺松次郎、飯島惣次郎、世話人篠原与三郎、小曽根民十郎、石崎総一、大津喜三郎らは社務所修理を機に増築し社運の隆盛を図った。
また昭和五年四月(1930)神饌幣帛料供進神社に指定された。同十一年(1945)十二月三日夜社務所から出火全社殿を焼いたが、幸い御神体は消失を免れた。太平洋戦争勃発、敗戦により、昭和二十年(1945)十二月十五日神道指令の大変革に依り苦境に追いこまれたが、地域住人の信仰厚く現社屋は昭和六十一年(1986)氏子関係者、一般崇敬者の協力を得て神職総代の尽力により新築落成した。
(境内碑より)












| 住所 | 群馬県館林市本町3-8-6 |
|---|---|
| 行き方 | 館林駅より徒歩13分 |
| 名称 | 竹生島神社 |
|---|---|
| 読み方 | ちくぶしまじんじゃ |
| 通称 | 浮島弁天 |
| 参拝時間 | 24時間 |
| トイレ | なし |
| ご祭神 | 市杵島比売命 |
|---|---|
| 創建時代 | 1597年頃(慶長2年頃) |
| 文化財 | 竹生島神社(日本遺産里沼) |
| ご由緒 | 天正十八年(1590)榊原康政公は十万石の領主として館林に入城すると間もなく城下町の南に接する今の本町三丁目付近の開拓、さらにその南方新宿方面に連絡する大通りの新設などを検断職青山出雲、小寺丹後両氏に命じた。その結果慶長二年(1597)には城下町を縦貫する大通りが完成。両名はこれらの功によって、江戸口門外に給田地を与えられ附近はたちまちのうちに商家軒を並べるという活況を呈した。そこで両検断は協議の末、古くから住民が信仰していた弁才天を鶴生田川北岸の大通り付近に建立した。ところが年月を経ると人家が増え、境内も手狭になったので、東北に当たる城沼つづきの池水に囲まれた現在地に移し、浮島弁天と称した。
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