もりんじ|曹洞宗|青龍山
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茂林寺の御朱印・御朱印帳
真ん中に本尊釋迦如来と書かれた御朱印には右上に分福の印が押され、左に分福茶釜茂林寺と書かれています。真ん中に大きく分福と書かれた御朱印もあります。
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限定 | - | ||
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御朱印帳 | - | ||
参拝時間 | 拝観・授与所
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電話番号 | 0276-72-1514 |
その他の巡礼の情報
御朱印・御朱印帳の詳細情報
御朱印(2種類)
茂林寺では、「釋迦如来」と「分福」の2種類の御朱印をいただけます。
釋迦如来の御朱印
真ん中に本尊釋迦如来と書かれ、右上に分福の文字が入った茶釜の印、真ん中に三宝印、左に「分福茶釜 茂林寺」の印、左下に青龍山茂林寺の印が押されています。
茂林寺本堂には本尊釈迦牟尼仏像が祀られ、また、本堂北側の一室には分福茶釜が安置されています。
分福の御朱印
真ん中に分福と書かれ、右上に分福の文字が入った茶釜の印、真ん中に三宝印、左下に青龍山茂林寺の印が押されています。
元亀元年(1570年)、茂林寺で催された千人法会にて、守鶴(しゅかく)というお坊さまが、いくら湯を汲んでも尽きることのない不思議な茶釜「紫金銅分福茶釜」を茶室に備え、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世寿命長久など八つの功徳を授かると言いました。
その後、守鶴の正体が狸であると露見し、人々が名残惜しむなか飛び去ったといわれるこの寺伝は、現代になり御伽噺「文福茶釜」として広く世に知られる事になりました。
コロナウイルスの感染防止のため、現在は書き置きのみの頒布のようです。
授与場所・時間
御朱印は、本堂の右側にある拝観受付でお受けできます。
御朱印の受付時間は9時~16時(木曜日不定休)。
詳しくは公式サイトをご確認ください。
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茂林寺は、室町時代中期の1426年(応永33年)に美濃国の大林正通禅師により開山。1468年(応仁2年)に青柳城主赤井正光(照光)が帰依し寺領8万坪を寄進し伽藍を建立した。
山門に入るまでに迎えてくれるはタヌキたち。
素晴らしい。
山門、本堂と茅葺屋根が歴史の重みを感じさせる。
というよりも、東京、神奈川などと違い、空襲がなかったことを知るのである。
タヌキの寺としても有名であるが、広い庭は丁寧に保管され、感動する。
当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。 元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と 名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、 開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。 その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。 人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。
寺の伝説では、こうなっている。
まんが日本昔ばなしなどとは、ちょっと違っているようだ。
この分福。福を分ける、という意味らしい。
舘林は、街の中、至る所、タヌキの像があった。
茂林寺参道の土産屋さんに聞くと、山がないから熊は出ない。その代わり、タヌキは沢山出る、とのことであった。
そして、ぶんぶく茶釜のお話しには、小僧さんが沢山出て来るのだが、ここの寺の敷地、本堂、庫裏の大きさからすると、江戸時代までは禅宗の修行寺としてにぎわっていたのではないか、という気がする。
しかし、風が冷たい。空っ風がキツイ。
と、文句を言う私の前を1匹の生きたタヌキが案内を
ニャー。おミャーさんは文句ばっかり言ってないで、有難いということを覚えるんだミャー。
きっと、ここにいるのは福を分けに現れたタヌキの化身なのだろう。
からっ風 感謝祈願ミャ 茂林寺よ
参道には、タヌキの置物が並ぶ土産屋さんが並ぶ。
外からは、旧い巨木が観える。ラカンマキ、オオサワラなど、もりんじでは有名な古木が多い。
銀杏の陰に隠れているのは馬頭観音堂になる。
お寺の猫のぶんぶくちゃん。

★群馬•栃木編①★
寺社巡りとはまったく無縁だった頃。
昔話『分福茶釜』を読んで行ってみたいと思っていた茂林寺様へ行って来ましたぁ😆
もう狸様だらけ🦝
御本堂の北側に宝物館?もあり、分福茶釜も観られるので入りたかったけど、この日はまわる所が沢山あったので諦めました😣
【茂林寺】
曹洞宗の名刹、青龍山茂林寺は、その開山を大林正通としています。 正通は美濃国土岐氏の出目で、華叟派の祖、龍泰寺開山華叟正蕚の法嗣でした。
寺伝によると、正通は諸国行脚の折、上野国に立ち寄り、伊香保山麓で守鶴と出会います。この守鶴は、のちに茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。
応永三十三年、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、
小庵を結びます。
応仁二年、青柳城主赤井正光(照光)は、正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号しました。正光(照光)は、 自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めました。
大永二年には、後柏原天皇から勅願寺の綸旨を賜ります。
寛永十九年(1642年)には、三代将軍徳川家光より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。
ー茂林寺HPよりー
☆茂林寺前駅☆
駅を出ると狸様がお出迎え🦝
後の看板には昔話の分福茶釜のお話の1部が書いてあり、続きは〇〇へと進む指示があってどんどん進み、読み終わると茂林寺様へ着けるようになっています😄
Googleマップがグルグルマップになっても安心😆
茂林寺様の入口の両脇にはお店が並んでいて、狸様の置物やシャッターに狸様が書いてあったりしてます🦝
店先にいた狸様🦝
☆境内案内図☆
☆総門(通称黒門)☆
当寺の入り口となる門。応仁2年(1468年)に建立されました。
☆参道☆
長い参道の両脇には狸様がズラ〜り🦝
☆狸様その1☆
☆狸様その2☆
☆狸様その3☆
☆狸様その4☆
☆狸様その5☆
☆狸様その6☆
☆狸様その7☆
☆狸様その8☆
☆山門(通称赤門)☆
黒門から本堂へと続く門。元禄7年(1694年)の建立です。
☆参道と境内☆
☆御本堂☆
応仁2年に建立、享保12年に改築を行い、現在に至ります。本堂北側の一室には分福茶釜が安置されています😊
☆扁額☆
【御本尊】
釈迦牟尼仏像
☆守鶴堂☆
守鶴和尚は大林正通大和尚と共に当地に小庵を結んで以来、歴代の住職に役僧として仕え、分福茶釜を当山にもらたしたと伝えられています。当山鎮守大菩薩として祀られています😊
★分福茶釜と茂林寺★
寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。
元亀元年(1570年)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。
その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七年)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。
後にこの寺伝は、明治•大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました。
守鶴堂入口の両脇にも沢山の狸様🦝
☆扁額☆
☆正通大和尚像•守鶴像☆
当山の開山大林正通大和尚と、之に随いこの地に至った守鶴和尚の像が安置されています😊
☆聖観音☆
上野国館林村大窪荘の高瀬善兵衛の娘が元禄元年(1688年)病没し、その供養の為に江戸神田鍋町の太田久右衛門(藤原正儀)が鋳造し、高瀬善兵衛が元禄3年3月22日に寄進したものです。
凄く大きな狸様
御本堂北側にいらっしゃる大黒尊天様
この奥の部屋が宝物館?になっています
分福茶釜見たかったなぁ😢
とても素敵なお寺様でした😊
また来ます🙏🏻
通年御朱印 『分福』
帰宅してから気づきました💦
参拝日が1ヶ月前になってる😱
通年御朱印 『本尊釈迦如来』
こちらも参拝日が😅
自分で書き足してもいいのかな…
御朱印と一緒にいただきました挟み紙?
館林方面の景色
おまけ😊
「麦落雁」と「ぽんちゃんぶんぶくサブレ」
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