ほうりんじ|黄檗宗|眞福山
宝林寺の御由緒・歴史
ご本尊 | 本尊:釈迦如来坐像 脇侍:阿難・迦葉尊者 韋駄天菩薩像 布袋菩薩像 華光菩薩像 緊那羅菩像 達磨大師像 観音菩薩像 中興開山潮音道海像 不動明王像 | |
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創建時代 | 1300年頃 | |
開山・開基 | 大拙祖能禅師 | |
ご由緒 | 宝林寺の縁起については、再三の火災により、詳細は現在に伝えられていないところもありますが、開山が大拙祖能禅師であり、数多くの弟子を輩出し、また、中興開山潮音道海禅師の時代には、伽藍が建立されていたとする記録もあり、潮音道海禅師を慕い、数多くの僧侶がこの地に訪れたといいます。現在では、本堂と鐘楼堂を伝えるのみとなっていますが、その当時の隆盛は想像に難くないものと考えられます。 中興開基である須田覚心居士が、「師(潮音道海禅師)が慕われている中国天目山の中峰国師の法孫で、大拙祖能禅師が建立した寺が上州にありますが、大変荒れたままで檀信徒は再建を望んでいます」と潮音道海禅師に云い、この話を聞いた潮音道海禅師は、もとより中峰国師の禅風を最も慕っていたため、その再建に頗る意欲を見せました。そこで、須田覚心居士は、武州四方寺村(埼玉県熊谷市)の邑長吉田六左衛門宗信(大機居士)、その弟吉田四郎兵衛、栗原助左衛門、森田権右衛門等と諮って、潮音道海禅師を上州眞福山宝林寺に迎えることになったのでした。寛文7年(1667年)2月15日、潮音道海禅師は上州新福寺村(群馬県邑楽郡千代田町)の眞福山宝林寺に進山されました。その住山の偈に 瓶錫相携入寳林|瓶錫 相携えて寳林に入れば
潮音道海禅師の寳林寺復興に対する意欲は燃え住民を集めて「当塗王経(観音経)」の講義をはじめました。それは、豊かな学識と薀蓄のある見事な講義で、住民にとっては長い旱魃のあとの慈雨のごとく、人々の心は揺り動かされましたから、忽ち領内の大評判になりました。 この評判が館林城に伝わり、ときの城代家老金田遠江守正勝(梅山居士)と家老の本多甚左衛門(古巌居士)が「近頃江戸で評判の潮音道海禅師が領内にいるなら、城内にお招きして法話を聞きたい」と直ぐに迎えを出しました。そして、館林城での法苑は20日あまりに及び、城代家老金田遠江守正勝をはじめ数多くの家中が帰依しました。その評判もまたたくまに関東一円にひろまり、老若男女問わず、法苑が開かれるとそれを聞くために数千人とも知れず、ときには一郡が傾いてしまうといわれるほどの人が集まりました。 | |
歴史 | 歴史[編集] 開山の大拙祖能禅師(勅諡:廣圓明鑑禅師)は14歳で仏門に入り、比叡山・東福寺・天龍寺等に学び、1343年に元に渡り千巌元長禅師に就いて修行し、中峰明本禅師の法衣を賜り帰国した。1306年の草創で、後に遠州大守を開基として、寳林寺を開創。日本大拙派を築くに至った。1667年潮音道海禅師は中峰明本禅師の禅風を慕って進山し、中興となり館林宰相綱吉公の帰依を受け、直伝覚心居士・大機宗信居士を中興開基として黄檗宗の宗風を振って道俗教化に務め、北関東最初の道場とした。1690年堂宇は悉く竣工を遂げたが、1866年に至るまでに再三の火難に遭い、堂宇等は焼失。京都七条仏所二十六代仏師康祐法...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「宝林寺 (群馬県千代田町)」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%AE%9D%E6%9E%97%E5%AF%BA%20%28%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E7%94%BA%29&oldid=99033123 |
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