かいざわはちまんぐう
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皆沢八幡宮本殿について
宇治川合戦や野木宮合戦に参戦した足利忠綱を祭神とする神社。
忠綱公は源平合戦の裏面史にも、また桐生・足利・佐野の郷土史にも深く関わる人物。
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河童神社で4時を迎えたので帰ることにしました。
梅田湖からは桐生の市街地に出る他に、佐野の山間部の飛駒地区に出られる峠道がありまして、山道ながらこちらの方が若干近いのでこのルートを取ることに。
戦国時代、間に足利長尾氏という敵対勢力がありながら、佐野氏と桐生氏が同族・同盟関係を維持できたのも、足利荘の北の山間部を迂回するこの間道があったため。
さて、この峠道を少し行くと桐生と佐野の境界、つまり群馬・栃木県境に皆沢(かいざわ)という集落があり、そこにこの神社があります。
ここは以仁王の挙兵の宇治川合戦「橋合戦」で先陣を切った藤姓足利氏最後の当主、足利忠綱公を祀る神社。
(余談ですが、この辺りには後の源義経の宇治川合戦に出てくる名馬「池月・磨墨」に関する伝承もあります。それも佐野側と桐生側双方に)
この足利忠綱という人物、最初は平清盛に仕え上記のように宇治川合戦で大功を挙げますが、恩賞への不満から東国に帰り今度は源頼朝に仕えます。
しかし、一族の内紛やこの頃から台頭してきた源姓足利氏の足利義兼との確執から、常陸で志田義広の蜂起が起こるとこれに加わり頼朝と敵対。
しかし野木宮合戦で敗れてしまい、上野国に潜伏の後、山陰道を通り西海に落ち延びたものの以後は消息不明に・・・ (一説には再び平氏に加わったとも、汚名返上のため義経の平氏追討軍に加わったとも言われる)
ところが鑁阿寺などの足利・佐野の寺社にはその後の忠綱公の消息に関する伝承がいくつか残ってまして・・・
それによると忠綱公は密かに足利に戻り、足利義兼に匿われていたらしい。
しかし義兼の妻の北条時子(北条政子の妹)との不義密通を疑われ、この皆沢に潜伏し最後は自刃して果てたとも義兼に討たれたとも伝わる。
後に事実無根と判明し。忠綱公の武勇を称え、無念を鎮めるために祀られたのがこの神社と言われています。
(同じく疑われた時子さんの無念を鎮めるために立てられたのが鑁阿寺内の蛭子堂)
今回何度か取り上げた桐生の民話にも当地に伝わる伝承がいくつかありました。
「避来矢の鎧」
http://www.kiryu.co.jp/kappatoamedama/monogatari/hiraiya.htm
「セチ餅つかない一ノ瀬家」
http://www.kiryu.co.jp/kappatoamedama/monogatari/sechimochi.htm
特にその消息を求めはるばる羽生の無人社まで行った、藤原秀郷公伝来の矢が勝手に避けていくというチートアーマー 避来矢に関する伝承もあったのは私的にちょっとワクテカした♪w
ちなみに近くには赤雪山という、平成ガメラ2でレギオンが出現したことで有名(違w)な山がありますが、この山の名前も忠綱公の血で雪が真っ赤に染まったことから来てるとのこと。
これらの伝承は、足利荘乗っ取りのために源姓足利氏が藤姓足利氏に対して行った陰謀や暗殺事件が伝わったものではないかと。
最後を源平合戦全体と地元の郷土史双方に深く関わる忠綱公の神社締めることができ、歴史好きとしては大変充実した1日となりました(* ̄∇ ̄*)
写真奥に写ってる梅田湖を渡る梅田大橋
これを渡ると佐野方面に行けます
この日は冷える日だった
山の中なので下では散り始めた八重桜がまだ満開
隣はかなり屋根の崩れかけた廃屋?
戸数10軒くらいの山村
この皆沢集落には百万遍念仏という独自信仰が伝わっている
後年入ってきたもののようで、忠綱公とはまた別の信仰
鳥居
正一位八幡宮とありますが、誉田別命は祀られておらず、あくまで主神は忠綱公そのもの
境内には社務所や公民館、トイレなどが並ぶ
山中なので方向が掴みづらいのですが、地図を見ると社殿はほぼ正確に真南に向けて立てられてました!Σ(*゚Д゚*)
もともと拝殿がないので八幡宮本殿となってます
ここは現在は群馬県・上野国ですが、もとは下野国に属していたとのこと
そのため社殿様式も桐生の神社と大幅に違い、佐野・足利の神社に近いものらしい
右手には古めかしい火の見櫓
SIRENなら間違いなくこの上に猟銃持った屍人がいて狙撃されますw
右後ろに摂社が一つ、祭神不明
後ろは土と岩が混じったような崖
左にも摂社が一つ
こちらは白狐の残骸があるのでお稲荷さんですね
稲荷神社の後ろにある磐座的な場所
山神社なので足元にはアリジゴクがイパーイ♪
社殿は全面ともに彫刻されてます
右側は中国の仙人の故事
後ろは天の岩戸開き
天照大御神、手力男命、天鈿女命、お囃子する二神(天児屋根命と天太玉命?)、常世の長鳴鳥こと鶏も彫られてます
左側は玉取姫伝説が彫られてるようです
ここへは、佐野方面からアクセスする方が、山間ののんびりした風景を堪能しつつ、のんびりドライブできます
都市が近いのにも関わらず、一本、道を入ると小さい頃に見た風景に出会えることは、とても貴重です
地域の集会所の、否、神社敷地に地域の集会所があるという場所です。
ちょっとした小山のような、大きな岩の上に鎮座されています。
この光景に、足利の名草の巨石信仰を連想しました。
社殿の裏に回ると、その様子がよくわかります。
宇治川の戦いで功を上げた、足利又太郎忠綱がお祀りされているとのこと。
社殿は保護目的の建物で覆われていますが、これもいい造りで味わいがあります。加えて、社殿脇の彫り物も、手が込んでいて見る価値十二分にあります。
人の往来は少なく、ひとりボッとするには最適な場所です。
今年の紅葉にはまだ早い時期でしたが、それでも皆沢川の渓谷美は、見事でした。
おとなりの庚申塔群とワンセットで、お詣りしたいところです。
歴史
足利忠綱終焉の地に立つ神社。
藤姓足利氏最後の当主、足利忠綱は平清盛に仕え宇治川合戦で大功を上げるも、恩賞への不満から東国に戻り一時源頼朝に仕える。
しかし一族の内紛、競合する源姓足利氏との確執等から、常陸で志田三郎先生義広が蜂起するとこれに加わるも野木宮合戦で敗北。
その後は上野国山上郷龍奥を経て西海に落ち延びるが消息不明となる(平氏に加わったとも、逆に源義経の平氏追討軍に加わったとも言われている)
しかし鑁阿寺などに伝わる伝承では、足利に戻り源姓足利氏の足利義兼に匿われていたが、義兼妻の北条時子(北条政子の妹)との不義密通の疑いを掛けられ、皆沢に身を隠し自刃したとも義兼に討たれたとも伝わる。
後に事実無根と判明、忠綱の武勇を称え、また無念を鎮めるため当地に八幡宮として祀られた。
名称 | 皆沢八幡宮本殿 |
---|---|
読み方 | かいざわはちまんぐう |
通称 | はちまんさま |
ホームページ | https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/shishitei/yuukei/1002037.html |
詳細情報
ご祭神 | 《主》忠綱明神(足利又太郎忠綱) 《境内社》稲荷神社・その他 |
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ご神体 | 忠綱明神像 |
創建時代 | 18世紀後半、ただし御神体の忠綱明神像は1543年(天文12年)の墨書あり |
創始者 | 不詳 |
本殿 | 一間社春日造 唐破風付柿茸 |
ご由緒 | 足利忠綱終焉の地に立つ神社。
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体験 | 武将・サムライ伝説 |
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