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臨済宗建長寺派

西方寺のお参りの記録一覧
群馬県 西桐生駅

たかく
2019年09月22日(日)
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桐生氏(家)歴代の墓所のある西方寺は鎌倉時代末期より約650年以上の歴史があり、寺の伽藍は南向きの緩やかな岡の斜面に建立されていて桐生氏歴代の墓所の高台まで登ると眼下の景色も素晴らしく遠く富士山も年に数回観望できる。寺伝では、鎌倉時代安貞年間(1227年頃)野州の豪族宇都宮弥三郎頼綱公が出家して浄土門徒となりその仲間の者が当地へ来て堂宇を構えたのが本寺の草創である。その後当地の豪族桐生国綱公は観応元年(1350年)檜杓山(城山)に桐生城を築き、このとき浄土宗宝樹山西方寺を建立した。およそ40年後3代桐生豊綱公は禅宗の教義に共感し、当時の名僧峻翁令山和尚(法光円融禅師)を頼んで臨済宗に改宗した。令山和尚の記録によると明徳3年(1392年)5月1日とある。第1世の萬古梵亘和尚は鎌倉大本山建長寺第97代目住職を務めた高僧であった。その後約100年間は記録上空白となった。第2世天叟中樹和尚はあじさいで有名な現在の鎌倉明月院を塔頭とした禅興寺(今は廃寺)から来山し、9代助綱と共に本尊胎内銘文中にその名を残している。その後天正元年(1573年)桐生家は滅び寺は外護者を失うが、江戸時代前期までに末寺7か寺、塔頭二院を持つ本寺となり、また御朱印寺としても十五石七斗の寺領を江戸幕府より認められていた。文政6年(1823年)の火災では、わずかに本尊他仏像を残しただけで全山焼失し、資料等も失われた。大正時代には第24世徳隣和尚の時本堂が、昭和の第25世大道和尚の時旧庫裡、鐘楼が再建され、さらに現本堂、桐生塔が順次建てられた。現在の客殿・庫裡は平成15年に落成し、檀信徒や地域住民の方々に見守られ往年の姿を取り戻しつつある。桐生市仏教会より

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