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ふくせんじ|天台宗慈雲山

福泉寺の御由緒・歴史
公式群馬県 群馬八幡駅

ご由緒

【概要】

明治七年八月十七日から明治十八年三月:「鼻高小学校」(現在:高崎市立鼻高小学校)
閉校後は、安中市の「蓮華寺」が兼務
大正十三年一月:放火により本堂を焼失
昭和二十七年:閉山
昭和五十一年:千葉県の「実相寺」の住職だった幸順(現二十五代目住職の父)が、再興

【箕輪城の戦いと当山】教科書ではさらっと流してしまう(残念)
ちょっと怖い話。。。

当山東側は、箕輪城の出城(内出)があった所と言われています。    
永禄年間、箕輪城は(長野業政)は、上杉謙信方にとって、西上州の領地として大切な場所でした。
これに目をつけた武田信玄軍は、六回にも及ぶ攻撃を繰り返します。
そして、当山は、武田信玄公が、戦の本陣を構えた場所と言われています。
当山から、箕輪城への見晴らしがよかったのかもしれません。
(今は、竹藪や木が覆い茂っていますが)

当山周辺は、上杉方と武田軍の合戦場であった為、この土地を開拓していた昭和初期には、戦国時代の人骨が掘り起こされたこともありました。
その後も、討ち死にしたであろう人骨などが掘り起こされ、「人骨を掘り出した人には、不幸が起こる」と不吉な噂が流れます。
「福泉寺の周辺で、彷徨える戦国時代の亡霊を見た」という噂も広がることとなりました。

そこで、幸順は、乱闘場に眠る、何百年も供養されることのない戦国武士の霊を鎮めるため、昭和五十六年五月に五輪の供養塔を建立しました。
それ以来、亡霊を見たという噂を耳にすることはなくなりましたが、この土地の人は、今でも、「戦国武士の骨が埋まっている」と、語り継いでおります。

境内には、子育て地蔵・二十二夜様も建立されており、四季折々の草花も楽しむことができます。
御参拝の折には、本堂の聖観音様とご一緒に、お手を合わせて頂けたら幸いです。

    

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