こうとくじ|真言宗智山派|成田山
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群馬県 高崎市 に境内を構える成田山 光徳寺(成田山 高崎分院) 高崎市内に在り大きい銀杏の木が目印、群馬県の方々の人の良さなのか県民性の高さなのかは解りませんが、群馬の寺院、神社、道の駅等ムラなく素晴らしい対応で気持ちが良く、また行きたいと想いました。2024.2に 北関東三十六不動尊霊場で参拝致しました、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 成田山、寺号 院号は 光徳寺、宗派は 真言宗 智山派、ご本尊は 不動明王、北関東三十六不動尊霊場 第五番札所、成田山 不動尊、天正十一年に開基。(開創)その後衰退の一途をたどっていたものの、明治九年に高崎市本町の旅館堺屋保五郎氏を中心とした地元有志の声により、千葉の成田山新勝寺より不動明王が勧請され、利根川の水運を利用して、成田山より光徳寺に運ばれました大本山より不動三尊像と僧侶が現在地に入り成田山のお不動様をお祀り致しました、明治初年、中山道高崎宿本町の境屋旅館の館主後藤安五郎は、成田山 新勝寺のあつい信者で、烏川~利根川を舟で半月もかけて参詣を続けていた。
明治十年(1877年)、高崎藩が廃され城跡が陸軍用地となるに及んで、城中西南隅の大河内輝貞の祈願所、威徳寺を買いうけ、当地へ移転し、明治四十年(1907年)六月、北甘楽郡一ノ宮町田島村の 天台宗 施無畏寺へ合併されるまで、千葉県 成田山 新勝寺の末寺であった。合併後現在まで、威徳寺の内陣は 光徳寺本堂東に建てられており、市指定の重要文化財となっている。明治四十五年(1912年)埼玉県児玉郡児玉町より現在の光徳寺を現在地へ移転したという(名目のみとか)時の住職松本宥海。移転当時、周囲は皆水田、本町二丁目から参道を開削したといわれている。境内には俳句・小説家の高浜 虚子(たかはまきよし)の句碑があり参拝しているそうです。虚子は正岡子規のすすめで俳句を始め、俳誌「ホトトギス」を継承し幅広い文学の才能を開花させた、明治期から昭和期にかけての俳壇のリーダー的存在。 虚子は群馬県とも縁があり、淡路町の下宿屋高田屋の主人大畠豊水(旧前橋藩士)の次女を嫁とし、長女は前橋に嫁ぎ、三女も太田に嫁いでいます。光徳寺にある句碑「金屏に 描かん心 山聳え」は虚子の群馬県内唯一の物だそう


光徳寺は、群馬県高崎市にある真言宗智山派の寺院。山号は成田山。通称「高崎成田山」と呼ばれている。北関東三十六不動尊5番。
寺伝によると、安土桃山時代の1582年に創建。その後衰退するが、明治時代の1877年、地元有志が千葉の成田山新勝寺から不動明王を勧請し、不動三尊像と僧侶が入り再興した。現本堂の右側に建つ旧本堂は、高崎城三の丸にあった威徳寺の内陣を移築したもの。また現本堂の左側に建つ太子堂は、市内の大工町の職人が神社に祀っていた聖徳太子が明治の神仏分離で神社を追われたため受け入れたもの。それぞれ経緯が興味深い。
当寺は、JR高崎線・高崎駅の北西1.5kmほどの市街地・住宅地にある。境内はさほど広くはなく、建物なども少ないので、見て廻るのに時間がかからない。
今回は、<北関東三十六不動尊>の寺院として参拝することに。参拝時は週末の夕方、参拝者は自分以外には誰もいなかった。

境内入口。左側の石碑は寺号標ではなく、<成田山 永代日護摩常夜燈>と書いてある(この左側に大きく立派な常夜燈が立っている)。寺号標は左手の離れた場所に建っている。

参道進んで左手にある<水屋>。真っ赤な塗装が印象的。

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