こうずけそうじゃじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
上野総社神社ではいただけません
広告
上野総社神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年07月24日(土)
参拝:2021年5月吉日
総社神社は、群馬県前橋市にある神社。上野国総社で、旧社格は県社。「上野国総社神社」とも称する。『上野国神名帳』を御神体とし、主祭神として磐筒男命、磐筒女命、経津主命、宇迦御魂命、須佐男命の5柱、相殿神として『上野国神名帳』総社本に記される「鎮守十社」の各祭神を祀る。
社伝によると、崇神天皇皇子の豊城入彦命が軍神として経津主命を祀ったのが始まり、安閑天皇の時には上毛野小熊が社殿を改築し「蒼海明神」と称し、奈良時代の738年に上野国549社を合祀して「総社明神」と称したとしている。ただ、諸国国府で国中の神々を合祀する風潮が生まれたのは律令制の衰退期(10世紀ごろ)なので、当社創建もその頃と推察されている。
室町時代に禅僧で詩人の万里集九が当社を訪れ記述を残している。戦国時代の1566年に兵火で社殿を焼失、元亀年間(1570年~1573年)に現在地に再建された。江戸時代には、3台将軍徳川家光が朱印地26石を与えた。明治時代に入り、県社に列格した。
当社は、JR上越線・新前橋駅の北西2kmの市街地にある。境内は広く、社殿も大きく立派で、旧社格が県社というのも納得。境内は整えられ草木は少なめだが、古巨木が随所に建っていて、古社としての趣もある。
今回は旧社格が県社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後、お宮参りや週末レジャーなど何組かの家族連れやグループが参拝に来ていて、地元民を中心に人気があることが伺えた。
社伝によると、崇神天皇皇子の豊城入彦命が軍神として経津主命を祀ったのが始まり、安閑天皇の時には上毛野小熊が社殿を改築し「蒼海明神」と称し、奈良時代の738年に上野国549社を合祀して「総社明神」と称したとしている。ただ、諸国国府で国中の神々を合祀する風潮が生まれたのは律令制の衰退期(10世紀ごろ)なので、当社創建もその頃と推察されている。
室町時代に禅僧で詩人の万里集九が当社を訪れ記述を残している。戦国時代の1566年に兵火で社殿を焼失、元亀年間(1570年~1573年)に現在地に再建された。江戸時代には、3台将軍徳川家光が朱印地26石を与えた。明治時代に入り、県社に列格した。
当社は、JR上越線・新前橋駅の北西2kmの市街地にある。境内は広く、社殿も大きく立派で、旧社格が県社というのも納得。境内は整えられ草木は少なめだが、古巨木が随所に建っていて、古社としての趣もある。
今回は旧社格が県社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後、お宮参りや週末レジャーなど何組かの家族連れやグループが参拝に来ていて、地元民を中心に人気があることが伺えた。
境内南端にある<一の鳥居>と<社号標>。社号標の後ろにあるのが<御神木>。当社には御神木が3本あるうちの1本。
社殿までまっすぐ伸びる<参道>。
参道左手にある<斎館>。
二の鳥居手前左の<巨古木>。高さ、太さともに立派。古木好きには堪らない~♪^^
参道進んで<二の鳥居>。両サイドの<狛犬>は新しい。
二の鳥居をくぐった場所から<拝殿>遠景。
参道左側にある<手水舎>。
手水舎の右隣にある<御霊神社>の鳥居。
<御霊神社>本殿。扁額、表札はないみたい。
参道右手にある2本目の<御神木>。高く、広く、太い立派な古木。根元を絵馬掛が囲んでいる。背後には左から<社務所・授与所>、<神楽殿>、<休憩所>の3つの建物が並ぶ。
こちらが<神楽殿>。塗装も綺麗で、造形も美しい。
<拝殿>全景。江戸時代末期1843年の造営。
<拝殿>正面。<上野國総社>の扁額。
<拝殿>を斜めから。向拝の彫刻がめちゃくちゃ凝っている。美しい!
社殿左手にある建物。<書庫>?。
社殿の右奥、境内の北西角にある、3本目の<御神木>。根上がりで、根本に大きな空間が開いており、まるで恐竜の脚のよう。まさに古木の造形美。
拝殿後ろの<本殿>。鮮やかな色彩が印象的。間口三間・奥行二間の三間社流造。慶長年間(1596年~1615年)の造営で桃山時代の様式。
社殿裏にある<稲荷神社>。
社殿右奥にある<九十九社>。
九十九社近くにある北側の<裏鳥居>。駐車場はこちら。
すてき
投稿者のプロフィール
惣一郎1269投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。