平安の頃、奈良の龍田大社の分霊を勧請したと言われる。
本殿下の巨岩に風穴があり一年中風が出ている。
通常かたく扉が閉められ近づくこともできないが、年に一度例祭のときだけ開けられ、安岐太鼓・浦安舞が奉納される。
昭和の初めごろまで女人禁制で、例祭のときには見張りがつくほど厳しかった。
昭和34年伊勢湾台風の際、この神社にお参りしていた人たちは被災しなかったと言われより一層信仰が厚く広まった。
「昔々、ある女が川沿いにこの山奥へ登って大穴の空いた巨大な岩を見付けました。
近くへ寄ってみると今まで良い天気だった空が瞬く間に暗雲に覆われ激しい風雨に見舞われたので大急ぎで帰ってきました。
その 10 日ほど後の快晴の日に再びその場所へ登ってみると、今度もまた以前のような風雨に見舞われ大地も鳴動し始めたのでとても驚いて帰ってきました。
それから逢う人ごとにその不思議な話をしていたので人々は恐れてその山へ入る者がいなくなりました。
ある日、どこからかやって来た老人がこの話を聞いて山中に入って行きました。
そこへ 37 日間こもって里へ下りると「あの場所には級長津彦神が居られる。うやうやしく尊崇せよ。女人は決して近寄るでない。」とだけ言い残してまたどこかへ立ち去ってしまいました。それ以来今に至っても女人の参拝が許されていません。
元和年間 (1615-1624年/江戸初期) の頃になると、信者がその年の豊作を祈願すると霊験あらたかな神徳があると広まったために人々が争って参拝するようになりました。
それ以来、年々参拝者の数も増え現在のようになりました。 」
(阿木歴史資料による)安岐郷誌より |