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【陸奥国式内百座】
所在地:福島県南相馬市鹿島区上栃窪宮下35
主祭神:少彦名命、天津彦火邇邇芸命、天津彦火々出見命、(伝)闇淤加美神
社 格:式内社(小)、旧村社
創 建:景行天皇の御代
由 緒
由緒によれば、景行天皇の時代に日本武尊が東夷征伐の勅命を受けて奥州にやってきた。その時、地主神である猿田彦命より霊示があり、皇御孫尊(天津彦火邇邇芸命)を勧請して17日間祭祀を行った。陣を引いた山は四方を川に囲まれており、日本武尊は地の利を生かして夷賊を倒して無事平定を進めることができたという。
地主神である猿田彦命は道祖神であり、道陸神とも呼ばれていた。冠嶺神社が勧請された山は、道陸神の霊験があった山のため「道陸神山(現在の堂六神山)」と名付けられたという。道陸神山の南麓に天の真名井の水をもって「真野の池」という水場を設け冠嶺神の御手洗とした。真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わる。また、真野川の上流には「立石」という奇石があり、猿田彦命が降臨し鎮座した場所だと伝わる。
冷泉天皇の時代である永承年間には鳳輦を持って天下泰平を祈る儀式が行われるなどしたが、その後康平年間に至る13年の間に前九年の役など戦乱が起きたため、神領社地は没収・荒廃し小祠が建つのみとなった。後堀河天皇の御代、氏子の志願によって社殿を里に立て、寛喜2年(1230年)4月8日に道陸神山から現在の鎮座地へ御神体を遷座した。その後、氏子の要望により苕野神社(浪江町の苕野神社の分霊社である飯舘村の綿津見神社)から「八龍大明神」と呼ばれる闇淤加美神を相殿神として合祀した。そのため社号を八龍神祠とし、郡民から「八龍大明神」と呼ばれるようになったという。それ以降、三柱の祭神を奉斎するようになり、浜下りの神事も行われるようになったという。
記述によると、浜下りの神事は7月7日に神輿を出御し、夜に角川原地区の熊木明神社に安置。明朝に現在の南海老地区の浜に降りて、天下泰平・武運長久・五穀豊穣・万民安全などを祈願し、祭典が終わると還幸したという。
現在の祭神のうちの一柱である少彦名命は、文政2年(1819年)の郡内式内社調査により八龍神祠が冠嶺神社の論社とされ、文政8年(1825年)に冠嶺神社へ改称した後に原町区信田沢の冠嶺神社から合祀されたと思われる。
(Wikipediaより)

少彦名命と天津彦火々出見命を祀る。
式内社顕正会によれば、現在の祭神は天津彦火邇邇芸命・天津彦火々出見命を祀るという。
「奥相志」によれば、天津彦火邇邇芸命・天津彦火々出見命・八龍大明神の三座を祀るという。
天津彦火邇邇芸命・天津彦火々出見命の御神体はどちらも「騎馬の尊像」であるとされる。
由緒
編集
由緒によれば、景行天皇の時代に日本武尊が東夷征伐の勅命を受けて奥州にやってきた。その時、地主神である猿田彦命より霊示があり、皇御孫尊(天津彦火邇邇芸命)を勧請して17日間祭祀を行った。陣を引いた山は四方を川に囲まれており、日本武尊は地の利を生かして夷賊を倒して無事平定を進めることができたという。
地主神である猿田彦命は道祖神であり、道陸神とも呼ばれていた。冠嶺神社が勧請された山は、道陸神の霊験があった山のため「道陸神山(現在の堂六神山)」と名付けられたという。道陸神山の南麓に天の真名井の水をもって「真野の池」という水場を設け冠嶺神の御手洗とした。真野川の名前はこの「真野の池」にちなむと伝わる。また、真野川の上流には「立石」という奇石があり、猿田彦命が降臨し鎮座した場所だと伝わる
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冠嶺神社(上栃窪)の情報
| 住所 | 福島県南相馬市鹿島区上栃窪宮下43 |
|---|---|
| 行き方 |
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