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さまくみねじんじゃ

佐麻久嶺神社の御由緒・歴史
福島県 いわき駅

ご祭神《主》五十猛命(須佐之男命の御子)別名/大屋毘古命
創建時代慶雲元年(704)4月7日
ご由緒

【 佐麻久嶺・事始めの由来 】
「五十猛命」とは「須佐之男命」の御子であり、別名「大屋毘古命」とも称されます。
由緒記によれば、この神は紀伊国名草郡日前国懸大神の分身であり、「佐(伊佐於志)」の上下を略した功の意味を持ち、「麻久」は蒔を指し、嶺は美称を表します。
五十猛命は紀州に降臨し、多くの木の種を持ち、大八洲国内の田畑や山丘にまいて造化を助け、天下に大きな功績を残したため、山の神や農の神、そして種をまいたことから「事始めの神」として敬われています。
【 歴代の崇敬 】
勧請は慶雲元年(704年)の4月7日と伝わります。
延暦年間(782~806年)のある時、坂上田村麻呂は東征の際、武運長久を祈願するために薄磯の海浜で潮垢離(しおごり)の神事が執り行われました。
その後、源義朝や足利尊氏、徳川家康なども祭使を派遣し、神事を行いました。
しかし、応仁の乱(1467年)の頃には、神官である中山彦次郎(小野氏の祖で一時は中山領主)は戦乱に巻き込まれ、祭事を中止し、旧記や神領などを全て失ってしまいました。
【 応仁の乱と再建 】
応仁の乱の影響で神官の娘は一時的に矢田村へと移り住み、神を勧請して郷の人達が社を建てました。
しかし、神霊は元々の場所(中山)を慕い、毎夜中山の嶺から光を放ちました。
そのため、当時の村主である植田平六はこの噂を嫌い、社を取り壊してしまいました。
彼の子孫は神の怒りにふれて滅亡したといいます。
その後、元の場所に社を遷しました。
天和2年(1682年)3月には雷火によって焼失しましたが、翌年の8月に平城主である内藤義泰が再建し山林一町歩を寄進して、現在に至っています。
また、境内の南下には「神宮寺跡」と称される畑があると伝えられています。
旧社格は郷社です。

歴史
歴史[編集] 社伝によると、慶雲元年(704年)の創建とされる。 延喜式神名帳では、陸奥国磐城郡七座の一座として小社に列した。江戸時代には磐城平藩より崇敬を受け、天和2年(1682年)に落雷で焼失した際は翌年に藩主内藤義泰により社殿が再建され、以後も歴代藩主より改修がなされた。 明治9年(1876年)郷社に列した。
引用元情報佐麻久嶺神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E4%BD%90%E9%BA%BB%E4%B9%85%E5%B6%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=85680035

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