なんりんじ|真言宗大覚寺派|医王山
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第57代桓武天皇の延暦23年7月、比叡山の僧最澄(後の伝歓大師)と空海(後の弘法大師)は藤原葛野麿を長とした遣唐使の一行と博多の那の津港(一説には平戸)から船出した。しかし、途中暴風雨に遭い入唐を諦めなければならない状態であった。この時最澄は「無事に唐の国に渡ることが出来たら、お礼に仏像を刻み寺を建てて衆生を救うため一生を捧げます。」と、仏に祈られ無事に唐の国に到着し、仏教の研究に努力され、翌年帰国された。時に最澄38歳・空海31歳であった。帰国後、誓願を果たすため良材を求めて筑前の山々を尋ね、ようやく夜須郡の白山(現在の朝倉市古処山)の麓で霊木を見出し、七体の仏像を一刀三礼して彫刻し供養されたが、一夜にしてその七体の仏像は無くなったのであった。最初の一体を秋月(現在の朝倉市秋月)の地でまつる予定であった最澄は仏様のお告げにより上座郡長渕(現在の朝倉市長渕)で見つけ、そこに寺を建立し、仏を奉り「南林寺」と名付けた。
九州八十八ヶ所百八霊場参り第六番札所
納経印
歴史
延暦23年804比叡山の僧最澄さいちょう(伝教大師)は、 仏教興隆のため、僧空海くうかい(弘法大師)と共に、留学僧として渡唐された。 途中航海の平穏を祈って、七仏薬師謹刻の大誓願を立てられた。
帰朝後九州に下り、祈願を果たすべく霊木を求め白山はくさん(秋月古処山)に至り、 榧の木をもって一刀三礼して七体の薬師仏を彫刻され、その■一番の尊像を本尊として、 大同元年8064月6日、長淵(朝倉町)の地に天台宗医王山いおうざん南林寺を建立された。
その後、後継者の関係から曹洞禅宗となって法燈は続いたが、 度重なる洪水のため移転を思いたち、太宰府の長官「少弐頼尚しょうによりひさ」の継母、 賀茂御庵宗修禅尼かものぎょあんやうしゅうぜんにに寺領の寄付を受け、 現在地に宗太和尚を開山者として禅宗南淋寺を建立した。 時に興国7年13464月8日であった。
慶安4年1648筑前太守黒田忠之公の命により真言宗(大覚寺派)南淋寺となり現在に至っている。
名称 | 南淋寺 |
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読み方 | なんりんじ |
トイレ | 駐車場にあり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 0946-52-0332 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
九州八十八ヶ所百八霊場 第6番 | 御本尊:薬師如来座像 |
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詳細情報
ご本尊 | 薬師如来座像(重文) |
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山号 | 医王山 |
宗旨・宗派 | 真言宗大覚寺派 |
創建時代 | 大同元年(806年) |
開山・開基 | 最澄 |
文化財 | 本尊薬師如来像 重要文化財
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ご由緒 | 延暦23年804比叡山の僧最澄さいちょう(伝教大師)は、 仏教興隆のため、僧空海くうかい(弘法大師)と共に、留学僧として渡唐された。 途中航海の平穏を祈って、七仏薬師謹刻の大誓願を立てられた。
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体験 | 写経・写仏祈祷お祓い御朱印重要文化財札所・七福神巡り法話 |
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