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金前寺ではいただけません
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金前寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年08月03日(火)
参拝:2021年7月吉日
気比神宮の奥の院として位置づけられ、平安時代初期の弘仁2年(811)には弘法大師空海(真言宗の開祖)も金前寺を訪れているそうです。
何度も焼失
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道行脚の際訪れ「 月いずこ 鐘は沈る うみのそこ 」の句を残し、宝暦11年(1761)には境内に句碑(鐘塚)が建立されています。
芭蕉の句の鐘は
延元元年(1336年)10月、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏の軍に攻められて敗走し、
後醍醐天皇の皇太子恒良親王は後に捉われ、皇子尊良親王及び、新田義顕(義貞の長男)は、金前寺の観音堂にて自害される。
この戦いに敗れる際、義貞は陣鐘を海に沈めた。そののち国守が海女に命じて探させたが、鐘の竜頭がさかさまに落ち込んで泥に埋まり、引き揚げることができなかった。と云われているそうです。
北陸三十三ヶ所観音霊場特番札所。若狭三十三観音霊場第2番札所。若越新四国八十八箇所第4番札所。
何度も焼失
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道行脚の際訪れ「 月いずこ 鐘は沈る うみのそこ 」の句を残し、宝暦11年(1761)には境内に句碑(鐘塚)が建立されています。
芭蕉の句の鐘は
延元元年(1336年)10月、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏の軍に攻められて敗走し、
後醍醐天皇の皇太子恒良親王は後に捉われ、皇子尊良親王及び、新田義顕(義貞の長男)は、金前寺の観音堂にて自害される。
この戦いに敗れる際、義貞は陣鐘を海に沈めた。そののち国守が海女に命じて探させたが、鐘の竜頭がさかさまに落ち込んで泥に埋まり、引き揚げることができなかった。と云われているそうです。
北陸三十三ヶ所観音霊場特番札所。若狭三十三観音霊場第2番札所。若越新四国八十八箇所第4番札所。
すてき
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さくら1530投稿
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