なんこうぼう|真言宗醍醐派|別宮山(べっくざん)
南光坊のお参りの記録一覧
今治にある南光坊へ参拝して来ました。
今治駅から徒歩15分ほどで到着です。
四国八十八箇所第55番札所として有名です。
いつかは、巡礼したいと思います。
3回目の1泊2日四国八十八か所巡り 1日目の10寺院目です。
いやぁ 今治市はお寺が集中していて嬉しいです。こんなに巡れるとは思っていませんでした。
海からそう遠くない今治市の町中に戻ってきました。
境内へは 仁王門からだけでなく いろんな道から入れますし 境内のど真ん中が駐車場になっていて 風通しのよいお寺というイメージです。
境内には 本堂・大師堂・金毘羅堂・瑠璃光殿・納経所がありますが それ以外に よくわからない黒住教今治大教会所というのがありました。
え?同じ境内に別の宗教? よく分かりませんでした。
お参りはしなかったのですが 道を隔てて 高野山今治別院もありました。
また 次に投稿させていただきますが 別宮大山祇神社もありました。
もともと大山積神社(大山祇神社)を中心とした地だったからかも知れません。
建物の多くは 第二次大戦で焼失して再建されたものだそうですが 大師堂は大正時代の創建だそうです。
町中ですから仕方がないのかもしれませんが やはり古い建物が好きです。
山号は別宮山(べっくさん) 院号は金剛院 宗旨宗派は真言宗御室派 寺格は中本寺 ご本尊は大通智勝如来(秘仏) 創建年は(伝)推古天皇御代2年甲寅(594年) 開基は行基 中興は天野快道です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あびらうんけんばざらだと ばん [2]
ご詠歌:このところ三島に夢のさめぬれば 別宮(べつぐう)とても同じ垂迹(すいじゃく)
でした。
由緒については
推古天皇御代2年(594年)勅により 大三島東海岸側に大山積神社の元となる遠土宮(おんどのみや)が祀られる。
のち国司越智玉澄は 大宝元年(701年)大三島の西海岸側に大きな社殿を造営し遷座しようと始めるが 社殿が完成し遷座の儀が行われ大山積神社が完成したのは養老3年(719年)である。
また 海を渡るため風雨の時祭祀が欠けることを憂い 文武天皇の勅を奉じて大宝3年(703年)大山積神を当地に勧請し社殿を造営し始め 同時に 本宮の大山積神社の法楽所として大三島に24坊を建立 その1つが南光坊である。
当地の宮は 本宮より早い和銅5年(712年)に完成し 「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀され別宮と称した。
その後 正治年間(1199年 – 1201年)大三島の24の僧坊のうち 南光坊を含む8坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊)が別宮の別当寺大積山光明寺の塔頭として移された。
空海は弘仁年間(810年 – 824年)四国巡錫の時 別宮に参拝して坊で御法楽をあげられたとされる。
とありました。
仁王門は大きかったです
多聞天
持国天
増長天
広目天
石柱?寺号
仁王門は鐘楼門でもありました
境内ど真ん中の石柱
金毘羅堂
薬師堂
修行大師像
瑠璃光殿
手水
本堂
扁額も立派
内陣
大師堂
扁額は 弘法ではなかった
内陣
納経所
【別宮山(べっくさん)金剛院光明寺(こんごういんこうみょうじ)南光坊(なんこうぼう)】
本尊:大通智勝如来
宗派:真言宗醍醐派
開基:行基菩薩
南光坊は、大山祇(おおやまづみ)神社の別当寺のひとつとして建立されている。大山祇神社は703(大宝3)年、航海の安全を祈願して今治沖の大三島に建立されたが、海を渡って参拝するのが不便なため、24ある別当寺のうち8坊が今治に移された。その後、弘法大師(774-835)が巡教の際に訪れたのが、四国霊場としてのはじまりとなっている。8つの坊は、長宗我部元親による天正の兵火ですべて焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。1600(慶長5)年には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。太平洋戦争で大師堂と金毘羅堂以外が焼失しており現在の本堂は1981(昭和56)年秋、薬師堂は1991(平成3)年春に、山門は1998(平成10)年に再建されている。
【55_T.Hamada's view】
大師堂
【55_金毘羅堂】
古来から海賊や水軍で知られる今治市。そのためか金毘羅大権現を祀る「金毘羅堂」がある。1860年頃、文久年間の建造物。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【55_金毘羅堂】
【55_本堂】
【55_大師堂】
【55_山門(四天門)】
迫力ある四天王像が配置されている。
【55_持国天像】
東方天
【55_増長天像】
南方天
【55_広目天像】
西方天
【55_多聞天像】
北方天
【55_薬師堂】
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
大師堂
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。
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