真言宗智山派須賀山(すがざん)
圓明寺のお参りの記録一覧
1泊2日四国八十八か所巡り。2日目の6寺院目です。
山から下りてきたら暑い暑い。町中の寺院です。
太山寺で知り合った方が 九州からバイクで巡られていて こちらでもご一緒だったのですが 「バイク暑いですよ」 はいお見掛けしていたら分かります。
エアコンないし 下から熱が上がってくるし。巡礼というより業ですね。
その方は般若心経を唱えられるので ここでお別れ。
本堂も大師堂も歴史を感じる古い建物で 内陣を見ても大満足。特に本堂の増長天と多聞天には見入ってしまいました。
古いだけでも素晴らしいのに 見事な彫りです。
境内に楼門(中門)があったのが少し驚きでした。他にもあったかな?なかったような。
本日3本目のドリンク補給して後にしました。
山号は須賀山 院号は正智院 宗旨宗派は真言宗智山派 ご本尊は阿弥陀如来 創建年は(伝)天平勝宝元年(749年) 開基は(伝)行基です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:来迎の弥陀の光の圓明寺 照りそふ影は夜な夜なの月
でした。
由緒については
寺伝によれば 天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来 脇侍に観世音菩薩 勢至菩薩を刻んで開基した。
当初は現在地より北西約2.5 kmの和気浜の西山という海岸にあり 「海岸山圓明密寺」と称する七堂伽藍を備えた大寺であったという。
後に空海(弘法大師)がこの地を巡錫し荒廃した伽藍を整備したという。
鎌倉時代以降に幾度か兵火によって荒廃 元和年間(1615年 – 1624年)に現在地に移転。
寛永10年(1633年) 須賀専斎重久がその私財をもって再興したものという。
その功労により寛永13年(1636年)仁和寺の覚深法親王より須賀山の山号を賜り 仁和寺の直末とされる。
とありました。
仁王門
わりと古いです
大師堂
内陣
修行大師像
手水
楼門(中門)
香炉
子育地蔵菩薩
閻魔大王像祠
仏足石
本堂
扁額
内陣
鐘楼
不動明王
観音堂
内陣
弘法大師石像祠
納経所
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
45番 圓明寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
45番 圓明寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
45番 圓明寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
45番 圓明寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
45番 圓明寺
【須賀山(すがざん)正智院(しょうちいん)圓明寺(えんみょうじ)】
本尊:阿弥陀如来
宗派:真言宗智山派
開基:行基菩薩
圓明寺は、第45代 聖武天皇(在位724-749)の勅願で749(天平勝宝元)年、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫って安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。のち、弘法大師(774-835)が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代の兵火で荒廃、元和年間(1615-1624)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、1636(寛永13)年、京都・御室の覚深法親王(かくどうほうしんのう)からの令旨(りょうじ)により仁和寺の直末寺として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。
【53_T.Hamada's view】
左から 中門、手水舎、鐘楼。
【53_キリシタン灯篭】
キリシタン禁制の寛永年間に建てられたと言われる十字架型の「キリシタン灯篭」。周辺に信者が多く、隠れ信者の礼拝がなされていたと考えられている。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【53_キリシタン灯篭】
高さ40㎝ほどの灯篭に聖母マリア像が刻まれている。
【53_中門から見る本堂】
【53_大師堂】
【53_仁王門】
【53_仁王阿形像】
【53_仁王吽形像】
【53_中門】
境内の真ん中にある。
【53_龍の彫刻】
本堂の右上・鴨居にある5mほどの彫り物。左甚五郎の作。行い悪い人が見ると目が光るという。
【53_閻魔大王】
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