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おおとじんじゃ

大戸神社
千葉県 大戸駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
-

大戸神社について

かつては年間45回を数える祭事が行われ、その一つに利根川に御祓いする御船木流し祭がありました。大戸川地区にある御休み所と称する地は、この祭事の時、神輿が御旅所としたところであるといわれております。

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惣一郎
2021年10月06日(水)
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大戸神社(おおと~)は、千葉県香取市にある神社。香取神宮の摂社。旧社格は県社。祭神は天手力男命(あまのたぢからお)。

社伝によると、景行天皇40年(110年)の日本武尊の東征の際、蝦夷征伐祈願のために祭神を勧請したのが始まり。その後数度の遷宮を経て、飛鳥時代の650年に社殿を造営した。古来より香取神宮との関係が深い神社で、当社の神主職・社領は、香取神宮の大禰宜・大中臣氏により相伝されていた。江戸時代には、江戸幕府が香取神宮に与えた朱印地1,000石のうち、当社に100石が与えられていた。現在の社殿は、1707年に徳川5代将軍綱吉によって改築された。明治時代には近代社格制度において県社に列格した。

当社は、JR成田線・大戸駅の南南東800mの小高い場所にある。雑木林と住宅街が混在するような一画にある。境内はそこそこ広いが、旧県社としては、社殿プラスアルファの構成でコンパクトな感じ。あまりひと気がない場所にあっても、拝殿の扉を開け生き生きした感じがあること、何本か残されている古巨木が良い雰囲気を出していること、氏子衆の集会施設がいくつもあることなどが印象に残る。

今回は、千葉県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は週末の午後、自分以外には参拝者はいなかった。

※拝殿には、御用の方はどうぞと、宮司さんの電話番号が表示されている。そこで、御朱印を拝受するため電話すると、所用があり2時間後になると申し訳なさそうに言われ、「また伺います」と言って泣く泣く断念。要再参拝。

大戸神社(千葉県)

境内南東端にある<鳥居>と<社号標>。鳥居は大きいが、社号標は低く小さく控え目。

大戸神社の手水

鳥居をくぐって、すぐ右側にある<手水舎>。何気なく年季の入っている手水盤を見ると、「元禄十四年」とある。なんと1701年!(;゚Д゚)

大戸神社の建物その他

参道から拝殿を望む。わがままな古大木が、参道に食い込んでいる。こういうの、すごく好き!(o^―^o)

大戸神社の建物その他

参道の左側、参道を挟んで古大木の反対側に<神輿奉安殿>。

大戸神社の本殿

<拝殿>全景。サイズは大きめ。手前の<狛犬>は不思議な色合い。

大戸神社の本殿

<拝殿>正面。当社は通常無人だが、ちゃんと扉が開いている。左側には、参拝者が持ち帰れるよう、由緒書きやオリジナル・ポケットティッシュが置いてある。宮司さんの電話番号が表示されてあるので、御朱印をお願いできる。

大戸神社の本殿

拝殿内部にある、<大戸神宮>と書かれた扁額。

大戸神社の本殿

<社殿>全景。さすが旧縣社と思わせてくれる、威風堂々とした風貌。

大戸神社の本殿

拝殿後ろの<本殿>。大きな拝殿に負けないぐらいの大きさ。壁の朱色も鮮明だし、彫刻の彩色も鮮やか。

大戸神社の建物その他

拝殿の右手にある<氏子会館>(右)と<宝物館>(左)。写真の右側枠外にも氏子向けの集会所のような建物がある。
写真左端の小さな鳥居は、本殿裏にある境内社群の鳥居。

大戸神社の末社

こちらが、小さな鳥居の後ろの境内社群。仏像もあったりして、神仏習合の名残りがあっていい感じ。

大戸神社の末社

本殿の裏手にある、石製小祠群。

大戸神社の自然

社殿の左奥にある<縁結夫婦杉>。

大戸神社の鳥居

旧参道を公道にしたようで、道は鳥居に突き当たると、境内左側を通るように微妙に曲がって続いている(なので、鳥居前は広場になっている)。(^▽^)/

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歴史

社伝によると、十二代景行天皇四十年111、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)の時、蝦夷(えざ)征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請し、幾度かの遷宮(同地区内)の後、三六代孝徳天皇自雉元年650、現在地に宮柱造営されたと伝えられております。
また、社伝では源義家が奥羽征討の時、その六男、義隆(陸奥六郎)は父に従い当社に参詣し、刀一口を奉献しました。正応2年(1289年)および明徳四年1393、両年に社殿造営の記録があり、後小松天皇の時、社領一萬貫を定められました。しかし、中世の武家紛争時代のため、兵乱にかかるところが多く、古文書など散失し、詳細については不明であります。

 天正十八年1590、豊臣が関東を征した時、その武将浅野長政・木村重詮(常陸介)は、大戸荘内六力村の神領において軍士の乱暴放火などを厳禁する制令を下しました。同年徳川氏入国の後、香取神宮朱印地1,000石の内から100石を分配され、宝永四年1707徳川幕府将軍綱吉の手によって社殿を改造されました。これが現在の社殿であります。

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名称大戸神社
読み方おおとじんじゃ
参拝時間

参拝:24時間

トイレなし
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし
電話番号0478-52-4503
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご祭神《主》天手力雄命
文化財

集古十種 八五巻、松平定信編
羅龍王面、納曽利面

ご由緒

社伝によると、十二代景行天皇四十年111、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)の時、蝦夷(えざ)征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請し、幾度かの遷宮(同地区内)の後、三六代孝徳天皇自雉元年650、現在地に宮柱造営されたと伝えられております。
また、社伝では源義家が奥羽征討の時、その六男、義隆(陸奥六郎)は父に従い当社に参詣し、刀一口を奉献しました。正応2年(1289年)および明徳四年1393、両年に社殿造営の記録があり、後小松天皇の時、社領一萬貫を定められました。しかし、中世の武家紛争時代のため、兵乱にかかるところが多く、古文書など散失し、詳細については不明であります。

 天正十八年1590、豊臣が関東を征した時、その武将浅野長政・木村重詮(常陸介)は、大戸荘内六力村の神領において軍士の乱暴放火などを厳禁する制令を下しました。同年徳川氏入国の後、香取神宮朱印地1,000石の内から100石を分配され、宝永四年1707徳川幕府将軍綱吉の手によって社殿を改造されました。これが現在の社殿であります。

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