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ほうがんいん|曹洞宗祝融山

法岩院のお参りの記録一覧(3ページ目)
公式千葉県 湖北駅

オリエント伯爵
2021年08月16日(月)
789投稿

御朱印アルバム Album of "Red Ink Stamps"
https://orientearl.com/

法岩院さんより、御朱印をいただきました。

また、サイトに「御朱印Diary」のページを新設しました。
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オリエント伯爵

法岩院の御朱印
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MightyDV
2023年10月30日(月)
20投稿

我孫子の社寺を訪ねる21―中峠地区(2)―法岩院
合同部会 金成典知 転載
http://abikosisiken.main.jp/kaihou/kaihou178.htm
法岩院   我孫子市中峠1561(小字は外谷津)

平成28年11月19日、我々合同部会メンバーは中峠にある法岩院を訪ね、川村住職に本堂内をご案内頂き、限られた時間ではあったが我々の質問にお答え頂いた。御多用中にも拘らず懇切に対応していただいたことを感謝したい。

当寺は、JR成田線湖北駅の北口から北西に約1kmのところにある。古利根沼(かつて利根川が大きく南に蛇行した流路の跡)の南、今は「古利根自然観察の森」として整備されている芝原(中峠)城跡と、谷津(現在の大和団地)を挟んで南に相対する少し高まったところにある。境内の東隣りと本堂の西側は高くなっている(台地が東から西になだらかに傾斜している)ので、本堂のある境内地は以前もう少し高い位置にあったかも知れない。

 法岩院山門と本堂
1. 寺の歴史 
曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来、山号は祝融山(しゅくゆうざん)。茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)(茨城県だが利根川右岸、埼玉県側にある。江戸川を挟んで関宿城跡に近い)の東昌寺(とうしょうじ)末であった。戦国時代の天文11年(1542)7月20日の創建と伝わる。市内柴崎の東源寺と中峠の長光院は、当寺の末寺になる。
開山は雪田(せつでん)真良(しんりょう)和尚。東昌寺の5世で、正覚禅師の諡号を賜っている(本覚禅師とする資料もある)。土浦市の土浦城跡近くにある神(じん)龍寺(りゅうじ)の開山でもある(こちらは天文元年の創建)。雪田和尚は東昌寺開山の即庵宗覚の法弟で、即庵は曹洞宗の有力寺院で神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺の11世住職である(雪田和尚も最乗寺の147世住職)。東昌寺の開基は古河公方の重臣で関宿城主の梁田持助、神龍寺の開基は土浦城主菅谷勝貞で、開基はいずれも土地の領主である。

最乗寺との関係は、大正時代に湖北村役場が発行した『湖北村誌』に、「抑も当山(引用者注 法岩院のこと)は、関八州甲信豆駿の諸国に跨り、二十五派四千余ヶ寺の末寺を有する最乗寺(・・・)の支流にして、・・・輪住(引用者注 住職を短期間に交替でつとめること)候補寺の栄を担いたる百三十余ヶ寺の一に列し・・」とあるように密接であったが、現在は独住(輪住に対する言葉で、一人の住職が引退するか死去するまで住職をつとめること)制になったこともあり、本末の関係は薄れている。
開基は芝原城主の河村出羽守勝融。当寺の山号祝融山は、開基の法号「祝融斎心岩永法大禅定門」に因んでいる。また、寺名に法号の2文字、法と岩が用いられている。「祝融」を『広辞苑』で見ると、①中国で火を司る神②中国で夏の神③火災、火事、とある。山号は、このどれを表しているのだろうか。

河村出羽守の出自は諸説あって、確定しない。前述の『湖北村誌』は、当寺にあった延享4年(1747)の梵鐘の銘などをもとに「千葉氏の支族」としているが、『我孫子市史 原始・古代・中世篇』は、「千葉一族説は後世の付会(ふかい)であろう」(524頁)とし、出自は不詳ながら、「おそらく、北条氏に従属していたのであろう」(560頁)としている(平野明夫氏稿)。昭和56年3月我孫子市教育委員会発行『我孫子市史研究』第5号の「中峠城主河村氏について」(長沼友兄氏稿)は、後北条氏草創の時期からの家臣団相模衆14家の中に河村家があり、中峠の河村氏は「この後北条氏の直属家臣団の一員である河村氏が、何らかの目的で我孫子中峠地区に登場してきたもの」としている。昭和58年12月我孫子市教育委員会発行の「我孫子の史跡を訪ねる」の当寺の項(増田義二氏稿)にも、「河村氏の本領川村郷は、曹洞宗の古刹大雄山最乗寺のある現神奈川県南足柄市(南は引用者補記)に隣接している。また本寺東昌寺がこの最乗寺の門末にあたることから、河村氏がこの地に法岩院を開基したいきさつがうかがえるかと思われる」と書かれている。
しかし、前述の『我孫子市史』は、この頃の北条氏は「いまだ直接被官を派遣して常駐できるほどには西下総地域を掌握していない。したがって、北条氏被官説は成り立たない」と否定的である。北条氏の家臣団の一員である相模の河村氏と中峠の河村氏をつなぐ確かな史料が見つからない限り、確定は困難と思われる。
開基河村出羽守勝融の没年は天文15年(1546)。河村氏はおよそ50年当地を支配したが、天正18年(1590)北条氏の滅亡によって没落し、芝原城も廃城になった。開山雪田和尚の没年は弘治元年(1555)である。

江戸時代の当寺については、再三の火災のため文書資料が残っていないが、『湖北村誌』所載の延享4年(1747)梵鐘銘によれば、当寺は万治年間(1658~1661)に火災に遭って堂宇が焼失したが、寛文年間(1661~1673)(『村誌』では寛永とあるが間違い)に12世霊峰淳苗が再建。16世天然自暁が元文から寛保年間(1736~1744)にかけて、僧堂、庫院、方丈の堂宇を整備し、釈迦如来像、開山像、達磨大師像、大権(だいげん)修理(しゅり)菩薩像、韋駄天像の五体の尊像を整えたという。この銘がある梵鐘は残念ながら第2次大戦中に供出されて今はない。
 『湖北村誌』によれば、はじめ、寺は寺山台(寺山台は中峠の今の小字にはないが、現在地の東に続く台地上と思われる)にあったが、当寺に見舞われた2度目の火災によって、20世越山大超のときに現在地(地蔵ヶ谷津と称された)に仮堂として建立したものを本堂とした、という。『郷土あびこ』第3号法岩院の項(林 義男氏稿)によると、昭和53年の旧本堂解体の折、大黒柱の先端に「明和元年(1764)申12月吉日」の墨書があった。移転新築はこの時期であろうが、とすると、「我孫子市社寺要覧(寺院篇)」に書かれているように、時の住職は18世心牛牧宗であったかも知れない。寺地を移した法岩院は、周囲に水田が広がっているところから、「田寺(たでら)」と通称されたという。
明治に入ってからの「寺院明細帳」には、本堂間数間口8間奥行3間、庫裏間数間口8間半奥行5間半と書かれ、境内坪数800坪、境内に大師堂、茶堂、鐘楼堂の三宇があると書かれている。
 内陣
 時代は下って、昭和54年に本堂を改築し、境内を整備している。現住職は33世に当たる。

2. 境内・堂宇
境内入口左右には、「新四国五十一番」(年紀なし)の札所塔と「不許葷酒入山門」(安永5年(1776)銘)の結界石がある。短い石段を上がった左右には、昭和48年に前32世住職が造立した「祝融山法岩院」と「曹洞宗」の門柱がある。石畳を進むと正面に本堂、右に庫裏、左に手前から長屋形堂と大師堂がある。本堂は間口9間奥行7間。入母屋造向拝付銅板葺で、前述のように昭和54年4月の改築だが、今も当時の状態が保たれている。堂内は前面と西側に廊下があって、中央仏間の奥を位牌の間としている。右側の庫裏と本堂の間に玄関が設けられている。本堂正面上に掲げられた「祝融山」の額は大雄山最乗寺独住18世の余語翠厳老大師の書である。
左奥の大師堂は、明治13年(1880)の再建で、方一間の入母屋造向拝付瓦葺。向拝部の天井に彩色の七福神が描かれ、四方の垂木が扇垂木で、柱に昇り龍、降り龍の彫刻があるなど、小さいが豪華な建物である。新四国相馬霊場の五十一番札所で、伊予石手寺の移しである。
左手前にある四間一棟の長屋形堂は、明治の寺院明細帳に記載がないので比較的新しい建物だろう。4つの堂には、弁財天、道了尊、地蔵菩薩、弘法大師が祀られている。

3. 仏像など
本堂 内陣中央には本尊釈迦如来座像、その右に頭陀第一摩訶(まか)迦葉(かしょう)尊者、左に多聞第一阿難尊者(アーナンダ)の立像が並ぶ。これらは本堂改築後に奉安されたものである。
同じく内陣には、中央に道了大さった、右に高祖承(じょう)陽(よう)大師(法統の祖道元の諡号)、左に太祖常済(じょうさい)大師(寺統の祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の諡号)の位牌が配されている。
内陣上部左右には、祖師達磨大師の座像と曹洞宗の守護神である大権修理菩薩の座像が配されている。いずれも寛保4年(1744)に奉安されたもので、本堂改築時に修復され、今も色鮮やかである。
同じく寛保4年に奉安された像は、釈迦如来、開山像、韋駄天像の三体である。開山像、すなわち雪田和尚の像は位牌の間に奉安されている。同末の神龍寺の像を手本に造立したもので、右手に払子(ほっす)を持つなど、少し姿を変えている。韋駄天像は本堂横玄関の正面上部に安置されている。韋駄天は寺院の伽藍の守護神で、甲冑姿で合掌する手に宝棒を捧げるのが通例だが、この像は右手に宝棒を構え持つ姿になっている。
かつて本尊として仏壇の中央にあった寛保年間の釈迦如来は位牌の間にあると思われるが、現地調査の際は確認できなかった。

 釈迦涅槃図
 本堂内左の廊下上には元文4年(1739)銘の殿(でん)鐘(しょう)(禅寺の仏殿などに吊るされる小鐘)が、右の廊下上には歴代住職が用いられた駕籠1挺がある。

寺が所蔵する画幅に「仏涅槃図」がある。明治29年に湖北村(当時)中里の中野治四郎氏が寄進したもので、釈迦が入滅したときの情景が彩色で描かれている。

大師堂 堂内正面に石造の弘法大師像が安置されている。

長屋形堂 向かって右端の小間には弁財天が祀られている。『我孫子市史 民俗・文化財篇』によると、元文5年(1740)の中峠村の記録に法岩院弁天堂にあったと書かれているもので、その堂が廃されて今はここに安置されている。木造彩色の女神の姿である。
 右から2つ目の小間には、「道了尊」の額が掲げられ、中に羽根団扇型灯明台がある。道了尊は前述の最乗寺の守護神である。室町初期に総持寺(当時は能登にあった)の16世住職であった了庵慧明が転住して故郷の相模に最乗寺を開山したとき、その事業を土木面で助けた人物が道了尊(道了大さつた)で、了庵が亡くなったとき、最乗寺を護持すると言って天狗に姿を変えたという伝説の主である。調査時に確認していないが、本堂内に天狗姿の道了尊立像も安置されている。
残り2つの小間には、木造地蔵菩薩像と石造弘法大師像が安置されている。

4. 主な石造物
 本堂の左を奥へ進んで、そこから左へ上がる石段を登ると、高台の正面に当寺開基の河村出羽守とその一族の墓石あるいは供養塔が並び、左右には歴代住職の卵塔(無縫塔ともいう)が並ぶ。正面の最右の自然石には、「当山開基祝融斎心岩永法大禅定門、天文十丙午歳六□□□日中峠邑城主川村出羽守勝融」と刻んである(解読は『我孫子市史研究』第5号による)。天文十年(1541)の干支は辛丑で、丙午は天文15年なので、年号の誤記と考えられている。
  河村出羽守等の墓石・供養塔と歴代住職の卵塔
この高台の南は、境内中程から入る竹林の道で、その両側に多くの石造物がある。江戸初期からの造立になる「十六夜塔」(延命地蔵などを彫る)、「十九夜塔」(如意輪観音を彫る)、「二十三夜塔」(勢至菩薩、あるいは文字を彫りこむ)、庚申塔などである。
本堂左手前の六地蔵が並ぶ奥に、天保5年(1834)造立の大きな筆子(ふでこ)塔がある。市内最古の筆子塔といわれている(『我孫子市史 民俗・文化財篇』)。前面に「前永平当院廿三世道珍海大和尚 禅師」、台石の正面に右からの横書きで「筆子中」とある。

5. 年中行事など
最大の行事は8月1日に行われる大施食会(おおせじきえ)(大施餓鬼)である。他の寺院の僧侶も参加して盛大に行われる。祖先、父母、親類、縁者や無縁の霊を供養する法要である。
そのほか、正月2日の新春大祈祷会を初めとして、彼岸会などの年中行事や、座禅会、写経の会などが行われている。
6. 檀家
湖北の中峠、古戸、中里一帯を中心に、多数所在する。

参考文献
 1.『我孫子市史 民俗・文化財篇』(平成2年)
 2.『我孫子市史 原始・古代・中世篇』(平成17年)
 3.『我孫子市史資料 旧町村誌篇 湖北村誌』(昭和55年)
 4.『我孫子市史研究』第5号(昭和56年)
 5.『我孫子市史研究』第12号(昭和63年)
 6.『我孫子の史跡を訪ねる』(平成7年)
 7.『郷土あびこ』第3号(昭和56年)
      以上すべて我孫子市教育委員会発行
 8.『我孫子の石造物(所在地別リスト)』(平成17年)我孫子市史研究センター合同部会発行
 9.『新四国相馬霊場八十八ケ所を訪ねる』(平成25年)我孫子市史研究センター発行

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