とうぜんじ|浄土宗|佛法山
東漸寺の御由緒・歴史
ご本尊 | 阿弥陀如来 | |
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創建時代 | 1481年(文明13年) | |
開山・開基 | 行蓮社経誉愚底運公上人 | |
ご由緒 | 東漸寺は、文明13年(1481)、経誉愚底運公上人により、根木内(今の地より一キロ北東)に開創された。開基は千葉氏一族の高城胤忠と伝えられる。この後天文年間(1532~1554)に5世行誉吟公上人の代に現在地の小金に移転され、高城氏の庇護のもと伽藍を整備し、江戸初期には関東十八檀林の一つとされた。
東漸寺の総門をくぐると多くの木々に囲まれた長い参道があり、春は桜、初夏は新緑やあじさい、秋はもみじと四季のうつろいを感じさせる。この静かな参道も4月の御忌会の時ばかりはたくさんの屋台が並び参詣者で賑わいをみせる。山門の手前にあるのが学寮(談話室)で地域の人たちの交流の場として公開されている。山門は昭和52年に営繕し竜宮門から仁王門に改め、昭和62年には西村公朝氏の監修によって、佐川定慶仏師の手による仁王像を新しく迎えた。山門に掛けられている「仏法山」の扁額は、中国、明の何倩甫の筆による。山門、中雀門をくぐると本堂がみえ、その前に横たわる樹齢数百年の鶴亀の松やしだれ桜がみごとである。当山の伽藍であるが慶応年間に描かれた境内図を見ると現在でも当時の面影を強く残していることが分かる。
「霊元天皇が賞嘆された香衣大師」 法然上人が入寂されて、16年後の嘉禄の法難に際し、山門の衆徒が墓所を破却しようと企てたため、法蓮房信空などの高弟が上人の遺骸を大谷の墓所から嵯峨、太秦、粟生野と遷し、粟生野の地で二位禅尼から贈られた香衣に召し変え、そのお姿を写したのが円光東漸大師香衣遺像である。霊元天皇が天覧された時、比類のない尊像として「香衣大師」と称された。この像は京都東山の長楽寺に安置されていたが、増上寺黒本尊の堂内に安置された後、改めて長楽寺より当山23世霊誉鸞宿上人に寄附され、それ以来毎年4月25日に御忌法要が執り行われている。 「開山愚底上人」 永正14年(1517)6月6日。信濃国筑摩郡洗馬郷に生まれ、幼名は長寿丸、父は長瀬但馬守という。増上寺の音誉聖観のもとで修行し、諸宗の学匠を訪ね勉学に励み、高城氏の帰依を受け、東漸寺を開創した。他にも長野県塩尻市に東漸寺、千葉県柏市に医王寺を建立した。 「第七世了学上人」 天文18年(1549)~寛永11年(1634)2月13日。小金城主高城修理亮の3男。東漸寺6世団誉紫雲のもとで出家し、源誉存応にも師事した。天正17年に紫雲の推挙を得て東漸寺七世となった。文禄4年には本多忠勝の帰依を受け、大多喜に良信寺(後に良玄寺と改称)を建立し、戦乱で荒廃した飯沼弘経寺の復興に尽力した。また土井利勝の招きによって佐倉に松林寺を建立した。寛永9年に2代将軍秀忠の命により増上寺の住職となり、同年1月24日に没した秀忠の葬儀の導師を務めた。 | |
歴史 | 歴史[編集] 東漸寺は、文明13年(1481年)、信濃国出身の経譽愚底運公上人により、当初、根木内(現在地より1キロ北東)に開創した。この後約60年後の天文年間(1532年 - 1555年)、現在地に移され、江戸時代初期に関東十八檀林の1つとされた名刹である。 檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「東漸寺 (松戸市)」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%9D%B1%E6%BC%B8%E5%AF%BA%20%28%E6%9D%BE%E6%88%B8%E5%B8%82%29&oldid=90369237 |
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