ほけきょうじ
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楽しみ方法華経寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年10月30日(木) 16時55分39秒
参拝:2025年10月吉日
休日に妻と散歩がてら参拝🙏
京成本線・京成中山駅徒歩5分🚶
非常に見応えあり、御朱印も頂戴しました。
御朱印の納経料は決まっておらず、志しを納める様式です。
私は500円お納めしました🙏
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市川市指定有形文化財
大本山法華経寺黒門附扁額
昭和三十六年指定
この門は法華経寺の総門で、全体が墨塗りとなっているため黒門と呼ばれています。
建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
門の形式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。
もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。
本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
如来滅後
閣浮提内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場
平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を草替えたほか、腐杉していた木昇等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。
平成二十二年十一月
大本山 法華経寺
市川市教育委員会
大本山法華経寺黒門附扁額
昭和三十六年指定
この門は法華経寺の総門で、全体が墨塗りとなっているため黒門と呼ばれています。
建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
門の形式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。
もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。
本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
如来滅後
閣浮提内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場
平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を草替えたほか、腐杉していた木昇等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。
平成二十二年十一月
大本山 法華経寺
市川市教育委員会

山門


日蓮宗大本山 法華经寺
正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。
彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。
時に鎌倉時代の中期、建長年間(一二四九~五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫腸で
す。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。
この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文十四年(一五四五)以後のことです。
富木常忍は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫首となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。
そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。
千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。
日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。
その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となりす。
法華経寺には、祖師日連の書いた「出正製国論」「観心本事務」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。
これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。
現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。
これを紙背文書と言います。
これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。
また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されていす。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
平成十年十二月
市川市教育委員会
正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。
彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。
時に鎌倉時代の中期、建長年間(一二四九~五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫腸で
す。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。
この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文十四年(一五四五)以後のことです。
富木常忍は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫首となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。
そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。
千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。
日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。
その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となりす。
法華経寺には、祖師日連の書いた「出正製国論」「観心本事務」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。
これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。
現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。
これを紙背文書と言います。
これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。
また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されていす。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
平成十年十二月
市川市教育委員会

祖師堂

祖師堂は、日蓮宗を開した日蓮聖人を祀る大堂です。
鎌倉時代の正中2年(1325年)に創建され、時は柱と柱の間が五つある五間堂という造りでした。現在の祖師堂は延宝6年(1678年)に上棟されたものです。
造りは七間堂で、正面から見た横幅が約26.5メートルあり、屋根を二つ並べたような比糞火母屋の形式を持つのが特徴です。
この造りの屋根は全国的にも大変珍しく、他には岡山県にある国宝の吉備津神社本殿だけとなります。
堂内は、正面吹き抜けの外陣、本尊が祀られた内陣、その両脇の脇庫と背面の後庫に区切られています。
内陣と外陣の境上部には携格子、下方には聖なる領域と俗なる領域を分ける結界と呼ばれる、取り外し可能な仕切りがあります。
また内陣と脇陣の境にも同様な結界があり、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。
天井は格線天井と呼ばれるもので、黒塗りされた格子を基盤目状に組んでいます。
天井板には法華経寺の寺紋である桔梗紋が描かれ、特に内陣を囲むように極彩色で塗られ荘厳な趣になっています。
このような祖師堂の規模や形式からは当時の庶民仰の盛んな様子がうかがわれます。
祖師堂は江戸時代初期の慶長6年(1601年)の修理の様子を記録した木製の棟札とともに昭和60年5月18日に国指定重要文化財に指定されました。
鎌倉時代の正中2年(1325年)に創建され、時は柱と柱の間が五つある五間堂という造りでした。現在の祖師堂は延宝6年(1678年)に上棟されたものです。
造りは七間堂で、正面から見た横幅が約26.5メートルあり、屋根を二つ並べたような比糞火母屋の形式を持つのが特徴です。
この造りの屋根は全国的にも大変珍しく、他には岡山県にある国宝の吉備津神社本殿だけとなります。
堂内は、正面吹き抜けの外陣、本尊が祀られた内陣、その両脇の脇庫と背面の後庫に区切られています。
内陣と外陣の境上部には携格子、下方には聖なる領域と俗なる領域を分ける結界と呼ばれる、取り外し可能な仕切りがあります。
また内陣と脇陣の境にも同様な結界があり、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。
天井は格線天井と呼ばれるもので、黒塗りされた格子を基盤目状に組んでいます。
天井板には法華経寺の寺紋である桔梗紋が描かれ、特に内陣を囲むように極彩色で塗られ荘厳な趣になっています。
このような祖師堂の規模や形式からは当時の庶民仰の盛んな様子がうかがわれます。
祖師堂は江戸時代初期の慶長6年(1601年)の修理の様子を記録した木製の棟札とともに昭和60年5月18日に国指定重要文化財に指定されました。

浄行菩薩

手水舎

本堂

重要文化財 法華経寺五重塔
大正五年五月二十四日指定
建築年代 江戸時代 元和八年(一六二二)
構造形式 三間五重塔婆 瓦棒銅板葺
この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。
塔の総高は九八尺(約三十m)で近世の五重塔としては標準的な規模となり、東京都大田区池上にある本門寺の五重塔(重要文化財)や台東区上野の寛永寺五重塔(重要文化財)とほぼ同じですが、他のものと比較すると軒の出が少ないので細長い感じを受けます。
建築様式は和様を主体として造られていますが、最上重のみは禅宗様になっています。
これは明治四十五年に半解体修理が施された際に変更されたものとみられます。
また、初の正面は両開きの横唐戸、両脇には窓枠に等間隔に格子をはめ込んだ連子窓を取り付けた伝統的な形式を守っています。
塔の内部には中心に心柱、その外側には四天柱と呼ばれる四本の柱を立て、さらに禅宗様須弥壇(仏像を安置する壇)を置き、木造釈迦如来・多宝如来坐像(県指定文化財)を初っています。
四天柱をはじめとして内部は極彩色や栄漆で塗られ荘厳にされています。
昭和五十五年に修理が行われて外部に弁柄塗りが植されました。
平成十一年三月
市川市教育委員会
大正五年五月二十四日指定
建築年代 江戸時代 元和八年(一六二二)
構造形式 三間五重塔婆 瓦棒銅板葺
この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。
塔の総高は九八尺(約三十m)で近世の五重塔としては標準的な規模となり、東京都大田区池上にある本門寺の五重塔(重要文化財)や台東区上野の寛永寺五重塔(重要文化財)とほぼ同じですが、他のものと比較すると軒の出が少ないので細長い感じを受けます。
建築様式は和様を主体として造られていますが、最上重のみは禅宗様になっています。
これは明治四十五年に半解体修理が施された際に変更されたものとみられます。
また、初の正面は両開きの横唐戸、両脇には窓枠に等間隔に格子をはめ込んだ連子窓を取り付けた伝統的な形式を守っています。
塔の内部には中心に心柱、その外側には四天柱と呼ばれる四本の柱を立て、さらに禅宗様須弥壇(仏像を安置する壇)を置き、木造釈迦如来・多宝如来坐像(県指定文化財)を初っています。
四天柱をはじめとして内部は極彩色や栄漆で塗られ荘厳にされています。
昭和五十五年に修理が行われて外部に弁柄塗りが植されました。
平成十一年三月
市川市教育委員会

市川市指定 有形文化財
法華経寺銅造釈迦如来坐像
平成三十一年三月十三日指定
この釈迦如来坐像は青銅製、鋳造で、総高が四・五二m、像高は三・四五mです。
本像は銘文によると、享保四年(一七一九年)に第五十九代貫首日禅上人を大願主とし、広く現世の安穏を祈り法華経の流布を願って造立されました。
江戸時代後期には江戸町中及び近郊には十一体の大仏(如来形)が知られるが、現存するのは九体であり、その中で本像は最も大きい規模を有しています。
本像の鋳造にあたった鋳物師は江戸神田鍋町の太田駿河守藤原正義です。
藤原正義は江戸時代の江戸中期に活躍した鋳物師で、有名な江戸六地蔵の五体を手掛けており、本像と合わせて計六体の六(四・八五m)の坐像仏を宝永五年(一七〇八年)から享保四年(一七一九年)の十一年間で製作しています。
本像は銅像で木型による鋳造と推定されます。
背面の中央には一辺が約六〇センチの扉が設けられ、胎内に入ることができ、また背面の扉を挟んで上方肩部と下方の腰部に、造立の因縁や由緒などについて書かれた銘文が豊富にまれています。
本像は、時期(江戸中期)、大きさ(大型に属す)、鋳物師(江戸中期に活躍した正義銘)の三点の江戸大仏の条件を備えており、江戸の大型鋳造技術研究においては、平成二十八年(二〇一六年)四月から平成三十年(二〇一八年)三月の修理に伴う調査で、江戸大仏全四十体の中で唯一製作技術を完全に解明したことや、外面・内面全ての三次元計測、金属成分分析などの科学的成果を得た点においても、今後の江戸大仏研究の基準となる多くのデータを得ることができました。
江戸時代の大仏として、品質、技法が優秀であり、蓮台内の調査成果や大仏に刻まれた銘文の解明により、江戸時代中期の信仰や宗教活動を知る上で貴重な資料となることから、市指定文化財に指定されました。
令和三年三月
市川市教育委員会
法華経寺銅造釈迦如来坐像
平成三十一年三月十三日指定
この釈迦如来坐像は青銅製、鋳造で、総高が四・五二m、像高は三・四五mです。
本像は銘文によると、享保四年(一七一九年)に第五十九代貫首日禅上人を大願主とし、広く現世の安穏を祈り法華経の流布を願って造立されました。
江戸時代後期には江戸町中及び近郊には十一体の大仏(如来形)が知られるが、現存するのは九体であり、その中で本像は最も大きい規模を有しています。
本像の鋳造にあたった鋳物師は江戸神田鍋町の太田駿河守藤原正義です。
藤原正義は江戸時代の江戸中期に活躍した鋳物師で、有名な江戸六地蔵の五体を手掛けており、本像と合わせて計六体の六(四・八五m)の坐像仏を宝永五年(一七〇八年)から享保四年(一七一九年)の十一年間で製作しています。
本像は銅像で木型による鋳造と推定されます。
背面の中央には一辺が約六〇センチの扉が設けられ、胎内に入ることができ、また背面の扉を挟んで上方肩部と下方の腰部に、造立の因縁や由緒などについて書かれた銘文が豊富にまれています。
本像は、時期(江戸中期)、大きさ(大型に属す)、鋳物師(江戸中期に活躍した正義銘)の三点の江戸大仏の条件を備えており、江戸の大型鋳造技術研究においては、平成二十八年(二〇一六年)四月から平成三十年(二〇一八年)三月の修理に伴う調査で、江戸大仏全四十体の中で唯一製作技術を完全に解明したことや、外面・内面全ての三次元計測、金属成分分析などの科学的成果を得た点においても、今後の江戸大仏研究の基準となる多くのデータを得ることができました。
江戸時代の大仏として、品質、技法が優秀であり、蓮台内の調査成果や大仏に刻まれた銘文の解明により、江戸時代中期の信仰や宗教活動を知る上で貴重な資料となることから、市指定文化財に指定されました。
令和三年三月
市川市教育委員会


聖教殿
ー、この建造物は「聖教殿」と申します。
中山法華経寺には、日蓮大聖人の神真筆、国宝、観心本尊抄、立正安国論を始め重要文化財六十四点、その他が格護されてありまが、その完全な保存をはかるために建てられたものであります。
盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学の教えるところをとり入れた保存方法が講じられています。
ー、この宝殿が建設されたのは、昭和六年でありました。
計画の発議は、そのほご七年前、当時の法華会理事長東京帝国大学教授法学博士 山田三良氏を中心に法華経寺、日蓮宗宗務院、其の他多方面の協力によって実行された事業であります。建物の設計者は、東京帝国大学教授工学博士 伊東忠太氏でありました。
ー、宝殿の建設と同時に「聖教護持財団」という財団が組織され、今日も引続き海真蹟の保存護持に当って居ります。
御真蹟は毎年十一月初旬に展覧されます。
法華经寺
說明板 寄贈者 平成十一年度 大荒行堂
ー、この建造物は「聖教殿」と申します。
中山法華経寺には、日蓮大聖人の神真筆、国宝、観心本尊抄、立正安国論を始め重要文化財六十四点、その他が格護されてありまが、その完全な保存をはかるために建てられたものであります。
盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学の教えるところをとり入れた保存方法が講じられています。
ー、この宝殿が建設されたのは、昭和六年でありました。
計画の発議は、そのほご七年前、当時の法華会理事長東京帝国大学教授法学博士 山田三良氏を中心に法華経寺、日蓮宗宗務院、其の他多方面の協力によって実行された事業であります。建物の設計者は、東京帝国大学教授工学博士 伊東忠太氏でありました。
ー、宝殿の建設と同時に「聖教護持財団」という財団が組織され、今日も引続き海真蹟の保存護持に当って居ります。
御真蹟は毎年十一月初旬に展覧されます。
法華经寺
說明板 寄贈者 平成十一年度 大荒行堂

重要文化財 法華經寺四足門
大正五年五月二十四日指定
建築年代 室町時代後期
構造形式 四脚門、切妻造、こけら葺
四足門はもと鎌倉の愛染堂にあったものをこの地に移したと伝えられています。
法華経寺では、はじめ本院の玄関門としていましたが、明治になって法華堂前の現在の場所に移されました。建築年代は形式より室町時代後期と思われます。
この門はほぼ純粋な禅宗様の様式で造られ、本柱を棟近くまで延ばし、この前後に控柱を立てて、これらを海老虹梁という湾曲した豚の強い梁で繋ぐ珍しい構造です。
柱の断面はやや楕円形でこれも他に例のないものです。
さらに彫刻類の装飾が多いことも特徴のひとつで、それぞれ室町時代後期に多くみられる文様や形をよく現しています。
これらの装飾は全て正面を意識して造られていることから、もとは側面の両側に堺を付属させた入口門であったと考えられます。
また建具は和様の板唐戸を用いて様式的な変化を持たせています。柱、虹梁(楽の一種)など主要な部材には機、その他の部分には・杉・桜などを用いています。
昭和十年に解体修理が行われ、大部分の部材が新しいものと取り替えられましたが、使用可能なものは文化財の保存の意味から再用しています。
平成十一年三月
市川市教育委員会
大正五年五月二十四日指定
建築年代 室町時代後期
構造形式 四脚門、切妻造、こけら葺
四足門はもと鎌倉の愛染堂にあったものをこの地に移したと伝えられています。
法華経寺では、はじめ本院の玄関門としていましたが、明治になって法華堂前の現在の場所に移されました。建築年代は形式より室町時代後期と思われます。
この門はほぼ純粋な禅宗様の様式で造られ、本柱を棟近くまで延ばし、この前後に控柱を立てて、これらを海老虹梁という湾曲した豚の強い梁で繋ぐ珍しい構造です。
柱の断面はやや楕円形でこれも他に例のないものです。
さらに彫刻類の装飾が多いことも特徴のひとつで、それぞれ室町時代後期に多くみられる文様や形をよく現しています。
これらの装飾は全て正面を意識して造られていることから、もとは側面の両側に堺を付属させた入口門であったと考えられます。
また建具は和様の板唐戸を用いて様式的な変化を持たせています。柱、虹梁(楽の一種)など主要な部材には機、その他の部分には・杉・桜などを用いています。
昭和十年に解体修理が行われ、大部分の部材が新しいものと取り替えられましたが、使用可能なものは文化財の保存の意味から再用しています。
平成十一年三月
市川市教育委員会


重要文化財 法華経寺法華堂
大正五年五月二十四日指定
建築年代 室町時代後期
構造形式 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、銅板葺附棟札五枚
法華堂は法華経寺の本堂で、釈迦・多宝両尊像を本尊としています。
堂の創建は文永年間(十三世紀後半)に富木常忍が若宮の館に建立し、後にこの中山に移されたと伝えられ、銭日貫文で建てられたことから四貫堂とも呼ばれています。
現在の法華堂は様式から室町時代後期に再建されたものと思われます。
もとは祖師堂と同じ地盤に建っていましたが、江戸時代中期に行われた祖師堂の建替えに伴ってこの場所に移されました。
建物は桁行五間、深間日間の小規模な五間堂で、屋根の銅板葺は江戸味代後期の改造によるもので建立当初は茅葺でした。
内部は正面一間の柱間を大きくとった吹き放しの外陣と一室の内陣からできています。
柱や須弥壇(仏像を安置する壇)の配置などからは、内陣の奥行きを大きく取ろうとしたエ夫が見られます。
なお、外陣正面にある「妙法花経寺」の額(市指定文化財)は本阿弥光悦によって書かれたものです。
法華堂は禅宗様を基調としながら和様を巧みに取り入れた形式で、日蓮宗仏堂としては最古に属する重要な遺構です。
平成十一年三月
市川市教育委員会
大正五年五月二十四日指定
建築年代 室町時代後期
構造形式 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、銅板葺附棟札五枚
法華堂は法華経寺の本堂で、釈迦・多宝両尊像を本尊としています。
堂の創建は文永年間(十三世紀後半)に富木常忍が若宮の館に建立し、後にこの中山に移されたと伝えられ、銭日貫文で建てられたことから四貫堂とも呼ばれています。
現在の法華堂は様式から室町時代後期に再建されたものと思われます。
もとは祖師堂と同じ地盤に建っていましたが、江戸時代中期に行われた祖師堂の建替えに伴ってこの場所に移されました。
建物は桁行五間、深間日間の小規模な五間堂で、屋根の銅板葺は江戸味代後期の改造によるもので建立当初は茅葺でした。
内部は正面一間の柱間を大きくとった吹き放しの外陣と一室の内陣からできています。
柱や須弥壇(仏像を安置する壇)の配置などからは、内陣の奥行きを大きく取ろうとしたエ夫が見られます。
なお、外陣正面にある「妙法花経寺」の額(市指定文化財)は本阿弥光悦によって書かれたものです。
法華堂は禅宗様を基調としながら和様を巧みに取り入れた形式で、日蓮宗仏堂としては最古に属する重要な遺構です。
平成十一年三月
市川市教育委員会


すてき
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ちよは105投稿
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