さるかじんじゃ
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楽しみ方猿賀神社のお参りの記録一覧

青森県 平川市 猿賀字 石林 に鎮座する、猿賀神社、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼してます、2025に 津軽龍神霊場、津軽八十八ヶ所霊場 巡礼の際 何度か参拝致しました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、主祭神は、上毛野君田道命、社格等は、旧県社・別表神社、創建は、伝延暦12年(793年)本殿の様式は、三間社流造、
別名として、深沙大権現、猿賀山長命院、例祭は、旧暦8月15日(十五夜大祭)主な神事は、七日堂大祭(旧暦1月7日)
『日本書紀』によれば、367年(仁徳55年)の蝦夷討伐で、猿田神社 祭神の 田道 は 伊峙水門で敗死したとある。また天皇の従者が 田道 の遺品をその妻に与えたところ、妻は遺品を抱きながら首を吊ってしまった。人々はこれを聞き涙したことであった、という、伊峙水門には 上総国 夷灊(いしみ)郡(旧 千葉県 夷隅郡)説と 陸奥国 牡鹿郡 石巻(いしのまき)(現 宮城県 石巻市)説とがあるが、社伝によれば、敗死した田道命は従者によって当地に埋葬され、後に蝦夷がその墓を暴いたところ、田道命 の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々が恐れて現在地 西方の 猿賀野に祀ったのに始まると伝える。200年後の欽明天皇28年(567年)に当地で洪水があり、田道命の神霊が白馬にまたがり流木を舟にして流れに乗り、現在地に遷座し、桓武天皇の時代に蝦夷征討に苦戦していた坂上田村麻呂が田道命の霊に導かれて大勝したので、延暦12年(793年)、田村麻呂が現在地に祠を造り、大同2年(807年)には勅命により社殿が造営されたと伝える。
後に、仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合し、深砂大権現(神蛇宮)と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡、北畠顕家ら附近にかかわった武将たちの崇敬を集めた。江戸時代には津軽藩の祈願所となり、猿賀山長命院と号する修験道場となった。明治の神仏分離により、明治4年(1871年)に神社となり、地名より「猿賀神社」に改称し(現在もかつては境内地であった社前に旧別当寺である猿賀山長命院神宮寺(天台宗)および猿賀山蓮乗院[4]が残る)、同6年郷社に列し、更に同16年(1883年)には県社に昇格した。戦後は神社本庁に参加し、昭和34年(1959年)にその別表神社とされている











猿賀神社内、胸肩神社、夏になると池の蓮子が美しい

猿賀神社内、胸肩神社

【陸奥國 古社巡り】
猿賀神社(さるが~)は、青森県平川市猿賀字石林にある神社。旧県社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は上毛野君田道命(かみつけののきみたじ)、相殿神は保食神。
創建は不詳。『日本書紀』によると、祭神の田道命は仁徳天皇55年(367年)の蝦夷討伐で伊峙水門(いしのみと)にて敗死したと記されている。社伝によると、田道命は従者によって当地に埋葬されたが、のちに蝦夷がこの墓を暴いたところ、田道命の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々が恐れて現在地の西方の猿賀野に田道命を祀ったのが当社の始まりとしている。200年後の欽明天皇28年(567年)に当地で洪水があり、田道命の神霊が白馬にまたがり流木を船にして現在地に遷座し、桓武天皇の時代に蝦夷征討に苦戦した坂上田村麻呂が田道命の霊に導かれて大勝したので、793年に現在地に祠を造り、807年には勅命により社殿が造営されたと伝わる。
平安時代以降、仏教の守護神である深沙大王(じんしゃだいおう)と習合し「深沙大権現(神蛇宮)」と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡、北畠顕家などの武将に崇敬された。江戸時代には弘前藩の祈願所とされ、猿賀山長寿院と号する修験道場となった。明治時代に入り、神仏分離令により神社となり、地名から「猿賀神社」と改称し、近代社格制度のもと郷社に列し、のちに県社に昇格した。
当社は、弘南鉄道弘南線・津軽尾上駅の西方1kmほどの住宅街の中、平地にある。境内の周辺一帯は猿賀公園という2つの大きな池を中心にした公園になっていて、当社はその南西部にある。2つの大きな池の上にはそれぞれ日吉神社、恵比寿神社という当社の境内社があるので、かつてはこれらを含む相当広い敷地があったものと思われる。メインの境内部分もかなり広く、旧県社の中でも相当大きい部類で、大きな蓮池に浮かぶ境内社を含めれば、別表神社というのもすぐ納得できる。実際自分も、境内の範囲が分からず、メイン境内から少し離れた水天宮、恵比寿神社、こいこい神社などの境内社を不覚にも見逃してしまった。
今回は、青森県の旧県社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中早めの時間で、親族で祈祷に来た人々や公園の一部として散策する家族連れなど、自分以外にも参拝者を何組も見掛けた。

境内入口の南方200mの、県道117号線に面して立っている大きな<一の鳥居>と大きな<社号標>。

公道の参道を100mほど進んだところにある<二の鳥居>。

参道右側の<蓮乗院>。明治の神仏分離令後も残された2支院の1つ。

参道左側の<神宮寺>。こちらも明治の神仏分離令後も残された2支院の1つ。江戸時代までの神仏習合時代の「神宮寺」の名跡を継いでいる。

いよいよ境内入口の<三の鳥居>。

三之鳥居をくぐって、右手に見える<社務所>。御朱印はこちら。

参道の右側にある<手水舎>。

参道の左側にある<祓所>。

参道左側の<狛犬たち>。4体あるので、反対側にも4体あるのかと思いきや、、、

参道右側の<狛犬たち>。こちらは3体のみ。(^_^;)
一番手前のものには、大正十五年(1926年)の銘がある。

<拝殿>全景。

<拝殿>全景。

<拝殿>全景。

拝殿から振り返って境内全景。樹木の茂り具合でできる、ほど良い暗さが神聖な空気感を生み出している。

拝殿後ろの<本殿>。江戸時代後期1826年の造替。三間社流造。梁間が通常の2間ではなく3間となっていて造りが独特とのこと。

社殿の左側にある、不思議なアーチ。特殊な鳥居かな?
頂上部分には「猿賀大神」と書かれた扁額が掛かっている。

アーチをくぐって突き当りにある石碑。当社の主祭神<上毛野君田道神霊>と刻まれている。

拝殿前を通って社殿右側へ移動。軒下の彫刻もなかなか良い。

拝殿に向かって右手にある境内社。社名は不明。

境内社の近くにある<精魂 三味線・福士政勝顕彰碑>。当地出身の津軽三味線の第一人者だったみたい。

拝殿の右手にある<芳賀徳蔵先生>と刻まれた石碑。大正から昭和にかけて青森県で活躍した医師みたい。

拝殿に向かって右手に、内側を向いた2対の<狛犬>が鎮座している。普通は社殿に向かう方向に向いているはずなのに。なんででしょう?(。´・ω・)?

年季が入っていてなかなか味のある表情の<狛犬>たち。
一つには明治廿八年(1895年)、もう一つには明治四十四年(1911年)の銘がある。

狛犬の先に進むと、急に開けた大きな池に出る。その入口には真っ赤な鳥居が。扁額には「胸形神社」とある。

鳥居の左側の<狛犬>。クセの強いお姿。

鳥居の右側の<狛犬>。ヤバいぐらいに個性的なお顔。

この池は「鏡ヶ池」といい、猿賀信仰の中心となる池とのこと。広大な池一面に蓮が育っている。

橋の反対側もこんな感じ。これは強烈な印象~!(;゚Д゚)

橋を渡ったところ、池に浮かぶ島の上に建っている<宗像神社>の社殿。

<宗像神社>の正面。

宗像神社の手前左脇に立つ小祠。
驚くことに、自分は見逃したが、宗像神社の背後(向こう側、東方)に同じぐらい大きな「見晴ヶ池」という池があって、そこにも別の末社「恵比寿神社」が建っているとのこと。Σ(・□・;)

最後に<社殿>全景。予想をはるかに超えるスケールの大きさに圧倒される~♪ (^▽^)/

367年仁徳天皇の勅命で蝦夷平定に向かうも戦死し、大蛇の姿になって征伐したとされる田道命(たじのみこと)を主祭神として祀る。
坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、苦戦を強いられたが田道命の霊感を受け勝利したことから、793年神蛇宮として祠を建てたことが始まりとされる。
807年に桓武天皇の勅願で社殿が造営された。
神仏習合し武士の神として信仰を集め、国司、奥州探題、藤原秀衡、北畠顕家、阿倍氏代々に崇敬され、江戸時代には津軽藩主・津軽為信により祈願所とされた。
本殿は1826年の建築である。

拝殿

拝殿



本殿

本殿

本殿


胸肩神社



池上神社


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